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「基礎教育」雑感
真鍋一男  

 バウハウスもそうであったように、たとえば戦争の破壊の跡を、単なる物質的技術的再建でなく、都市に新たな精神的風土や生活様式を与えようと願うところにデザインがあった。そこまで降らなくても、かつて芸術はきわめて重要な社会形成の役割、即ちデザイン的機能を果していたが、「芸術のための芸術」の合言葉が、それを終らせてしまった。デザイン教育の場にありながら、芸術に対して「芸術のための芸術」的な芸術観をいまだにいだくばかりに、デザインが芸術であるということを躊躇して、狭い技術観でデザイン教育をみることは、自ら墓穴を掘ることになるのである。デザインは狭義の美術(絵画や彫塑)とは当然異るが、造形芸術(広義の美術)であることを捨てて何が残るのであろう。

 すなわちデザイン活動は、内面の自己表現である純粋美術と並んで、より広く人間生活に密着した造形芸術である。そして純粋美術とデザインの両面に共通する性能が造形性であり、造形性こそ、文学性や音楽性に対して文字通り、純粋美術やデザインを造形芸術たらしめている根拠となっている公分母というべきである。造形性は、そのあらわしたものが何を意味し、そのつくられたものが何の為のものであろうと、そのような内面的意味内容や実用約諸機能を捨象しても、そこに感ぜられる純粋な形態、色彩や空間関係の問題である。したがって絵や彫塑のような写生の教育の間にも綜合的に自づと造形性は伸びるのであるが、知的な造形的統合活動であるデザインの為や、学習経済上からも、大学期に於ける造形実習としては充分と言えない。そこで自然が対象にたよらないで、色や形、材質や空間などの抽象的感覚的な要素を形式として構成する頭や目を育てなければならない。この造形的な能力は人間の生まれながらにもっている創造力に根ざすもので、個性と原理の対立の上に、分析と綜合の実際材料によるたゆまぬ実験によって育成されるものである。

 造形性の学習はそれを厳しくすればするはど、その表現の意味や機能を捨象し、無目的で抽象的な扱いをする方向をもっている。即ち純粋さと明確きをもった視覚の問題として鋭く深かめようとする。そして視覚をまとまりのある全体として完全な結合関係即ち形式へと秩序だてようとする。そのようにして釣合いとか調和あるいは律動などと組織づけられるが、それは単なる感覚形式につきるものではない。逆に感覚をとおして感情に呼応し思想や観念といった内面のさまざまな層に結びつけられるのである。

 機能的であり構造的で合理的であれば、自ずとよい形が出るということにあまんじるなら、造形とかデザインといわないで、物質は工学技術にまかしておけばよいのであって、デザインというのがおかしいことである。逆に美的であれば解らなくても、使えなくてもよいというなら、それは狭義の美術であってもデザインとはいえまい。


 
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