「構成」の方法について(1)
田中 淳  

 私はある会合の席上、話し合われたことがらの中から、どうしても私の課題となってきて、心を去らないことがある。

 それは、ひとことでいうなら“構成とは何か”という問いである。桑沢デザイン研究所で、十年余も、学科目(実習科目)の名称として“構成”という名称を用いつづけられてきた。そして数年来この実習科目指導に当ってきている者として、私の問いかけは何としたことであろうか。もちろん、広辞苑をひけば字義はわかる気もする。

 “構成”とは「かまえつくること。くみたてること。こしらえること。構造。」と記るし、ついで「構成主義(Konstruktivismus ドイツ)1920年頃、ロシヤ、ドイツ、オランダなどに起った芸術上の傾向。主として機械的または幾何学的形態の合理的・合目的構成によって新たな美を創造しようとするもので、美術、建築の分野に起り、文学にも影響が及んだ。」と。さらに構成的心理学─についても言及している。

 しかし、私の問いはこれを読んでもいっこうに失せはしない。むしろ私は自分の教案の中にとり上げてきたオリエンテーションの時間のことに思い及ばずにはおれない。…私はまず黒板に向い、構成─と黙って書いて、学生たちの方に向き直る。
「私は、構成とはつくることだとおもう─」
と話しを運んで、この“つくること”は私の時間の中では次の4つのものだといって、また黒板に向って書く。

1. ともだちづくり かたちづくり
2. ことばづくり
3. なかまづくり
4. みかたづくり

「自分の手にするもの、自分の手で生れてくるもの、自分の中にあって現われいでくるもの、そうした材料、用具やイメージやアイデアや形や色とともだちとなることから出発してほしいとねがっている。その友だちとの対話が表現の形式をとるとき、それらがことばとなって力づけられ、そして同じワークをしている同志がなかま意識をもって創作にぶつかれると、もっとことばはたしかになるし、ひろがりも持てる。ここで、新しいみかたが新しい視野がひらけるのだ。このかたちづくりの実習は身じたく、道具支度、材料支度が無くては始まらない。サァそこで…」と続くのだ。

 しかし私は決してこの授業のオリエンテーションに満足してはいない。それが証拠に、こうして“構成”とは何なのかと、今自分に聞こうとしてきている。

 私のやってきている構成の実習指導が基礎デザイン教育という層で果して普遍的なものであり、方法的な、それこそ文字どおり“合理的”でありえているかどうか、私の問いかけはずっと以前からもあったことだ。むしろ学的に満足のゆく“指導”として、真に教育的でありえているか─こうした問いとして、内容のある答えを自分に向って投げつけているものであろう。

 デザイン教育という目的にむかって必ずや到達すべき道(ホドス・οδos)に従って(メタ・Μετα)行くこと:方法(Μεθοδοι)をこの私の“構成実習の指導”でとり得ているだろうか。いわゆる“構成学”として、デザイン教育という体系の中に、キチンと位置できるような知識と技術の体系づけを、果してどのように求めているだろう。さらにこういう場合の方法ということばは、とりもなおさず自分自身を律してゆく規範という意味をかねそなえてくることになろう。それは自律的であると同時に自由になる前提にもなるだろう。

 私の場合“構成”の方法として、また“構成学の方法”として、自分自身を律するときに、最も大切なことは、私は“つくる人”でなければ、つくること─“構成”はわかるハズがなく、常につくる人でいたいということである。

 ここで、私は漠然とではなく、問いかけに答えようとしている自分自身を発見しえたのである。
(この項つづく)