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ポール クレーの造形教育
矢野目鋼  

 第一次世界大戦が終って軍役から解放されたポール・クレーは,すでに新人として注目され,画壇の若い世代に強い刺激をあたえていたようである。1919年には,シュツツガルト・アカデミの学生会委員長をしていたオスカ・シュレムマ,ゲイリ・バウマイスタらが運動して,ポール・クレーを自分たちの教授にむかえようとしたが,反対もあって果せなかった。学校側の反対の理由には,クレーの芸術は,夢のようであり,またあまりに繊細なので教師にはできないとあった。翌年の10月,なんの前触れもなく突然にグロピュウスらバウハウスの教授団から電報がきて,ワイマルに来るようにと要請された。当時バウハウスにはなんらかの事情があって,事は非常に性急に取り運ばれ,クレーは21年の新年早々にワイマルに移り4月14日から授業を始めている。彼はその後10年バウハウスの教壇にあったのだが,その間に彼が学生にあたえた独特な造形思考の方法,それとそれの具体化である彼の多くの作品は現代絵画の大きな指標の一つとなって強い影響をのこしている。

 創作の方法や秘伝のようなものの記述,または芸術論の類はたぶん芸術の歴史の最初からあったとおもわれる。そしてモダン・アートにおいても同じようにたくさん善かれている。とくに職業的な批評家・論評家というものがでて,彼らの書くものが(たぶん「文学」の)一ジャンルを形成するまでになっている。それらの中で現在評価きれてモダン・アートの理論家の第1番とされるのはカンディンスキだといってよいだろう。クレーも,1918年9月にでたカンディンスキの「純粋芸術としての絵画」を読んで感銘をうけ,これに刺激きれて彼のそれまでの研究と思索とをはじめて明確に,そして体系的にまとめた論文「創造的信条」を書いた。バウハウスで授業するようになると,クレーは毎回の講義のために詳細な計画をたてて実行した。その予備的な思索や図やスケッチの記るきれたノート,彼はこれらに超して「基礎的な法則と造形の理論,私の分担」と呼んだが,それによれば,彼の最初のほぼ2年間にわたる授業活動を再構成することができる。また別に講義用にまとめたノート「絵画的造形の理論に関して」というのもあり,それからの抜粋が1925年デッサオで出版きれたバウハウス叢書の第2巻「数百万法論的スケッチブック」である。1923年のバウハウス年報には「自然研究の方法」があり,またわれわれに親しいものとしては1924年イェナにおける講演「モダン・アートについて」がある。クレーの造形理論の母体の骨組みは1925年までの約5年間にまとめあげられ,その後新しい問題や必要に応じて修正され,だんだん多様化し,充実していったと思われる。彼の残した「日記」も有名であるが,すでにのべたノート,メモ,教育計画案,構図下書き,スケッチ,その他断片的なものの量は膨大である。それらは彼の絵画作品ほどではないがすでにいろいろのひとの手に渡っているらしい。大小の作品集,作家研究,評論,伝記,日記などクレーに関する出版物もすでに夥しい。しかし彼自身の創作にあたっての考察と,それの体系化きれた教育方法論の全貌は,ついにクレー白身の手によって集成きれることはなかったし,他の研究者にとっても資料は豊富でありながら,それを一貫した関連性の中にとらえて再構成することは非常に困難だった。戦後この困難な仕事が完成されて出版された。編者ユルク・シュピラによる「ポール・クレーの造形思考」である。編者は芸術家の妻リリ・クレーシュトンプフ,子息フェリックス・クレー,クレー協会,その他の収集家,研究家の協力を得て,またことにクレーの教育を受けた側としては,当時の女子学生ペトラ・プティツトピエールのノート,「デッサオ・バウハウスにおけるポール・クレーの絵画教室より」「デュッセルドルフ・クンストアカデミ1930〜32より」および「クレーの造形理論コース」の提供をうけて資料を集め,解釈のし方,年代的前後関係の推定,意味上の関連性の確認などの作業をとげて,クレーの芸術と教育の全貌を詳細にしかも有機的な全体にまとめあげた。最初ドイツ語版がでるとひきつづいてイタリー語版,英語版がでた。私のこの稿の目的はその1961年の英語版によってこの本を紹介し,とくにイタリー語版の序文から英訳されたジゥリオ・カルロ・アルガンによるクレー論の要旨をたどろうとする試みにある。


 ポール・クレーの造形理論は,ルネッサンスの芸術においてレオナルドの理論がもったと同じ重要さと意味を現代の美術において果している。それは両者とも画風や技法についての約定のようなものではなく,芸術家の制作にあたっての内面的な分析の結果であって,芸術家の現実についての感覚を明るみにもちだすという,制作の過程と目的に密着した構成分子となり,作品の形成とともにあってそれを統御するものである。クレーもレオナルドも作品の固定的な価値よりも形成の過程に関心をもった。彼らは創造的な芸術の道は,現実に生き現実を理解する一つの独立した完全なあり方であることを意識していた。

 クレーの詩想は矛盾の詩想,マラルメからリルケの詩想だったといえるかもしれない。クレーはリルケの友人であったし,マラルメとは少くとも2つの点で共通の興味をもって連っている。それはワグナーとポウである。その基本的なテーマはつねに,存在の非実体性,捕捉し難たさ,不確定性,現実の空虚さ,そしてその空隙を人間的な努力と芸術的な創造によって満たきねばならぬという要求である。このようなテーマは止みがたい創作欲からではなくて,すべてのものの痛ましい不確かさを知ることと,われわれの否定不可能な存在意識,必然的に一定の世界,一定の時間,一定の空間に存在することとの間にある矛盾関係から生れるものである。われわれの現実についての知識はすべてのこのような苦しいパラドックスをへて得られる。われわれに課せられる現実のイメージは単純な一つの壮大なる世界像ではなくて,しばしば分裂的で不可解な,そしてわれわれの存在のどこをとってみても常に断片的なイメージのせわしい継続である。

 たぶんマラルメと同じくクレーも芸術の絶対的な「作品」を夢みたと思われる。けれど結局それを達成しなかった。クレーの本当の仕事は膨大な量の,彼の探求生活を証明するもの,つぎつぎと急速に描かれた一連の絵画作品,連続するスケッチやノートのペイヂ,休みなく続けられた技術的な実験などの無数の断片をへた展開の中に認められねばならない。彼の造形理論をなすクレーの書きのこしたものは,むさぼるように急速に繰り展げられた彼の未完に終った創造的な仕事をその瞬間ごとに定着しようとする試みであったし,気ままなメージを変転しやすい出来事,その不確定な形からすくい上げて意味をあたえようとする試みであった。それらはだから単なる説明文ではなくて,彼の作品の必然的な部分である。それはそれがつけられた図画とは切り離せないものであるから,彼の他の絵画的な作品やグラフィックな作品からも切り離せない。また彼の仕事が同時的に発展していたいろいろの次元からも,また彼の進展にある当然の不規則性や,予期しなかったものや,彼の知的な冒険を多くはらみながらも保たれた厳しい一貫性からも切り離せないもの である。

 しかしクレーの発想には,精確に定義きれた目的をもち,よく検討されたバウハウスの授業計画と同じように,大いに教育論的に組み立てられているという特殊な点がある。今世紀の画家の中でクレーほど意図的に幻想世界につっこんだ人はないだろう。彼は無意識界を探り,孤立する自我白身を発見する絶対の真正な体験を,さらにわれわれが死の瞬間にだけ得られる,自我の究極の真実を明白にしようと努めていたようにおもわれる。だから彼がつねにもっとも集中した問題は,自分白身の体験を反復できるもの,利用できるもの,最後には生産的なものとして伝達することであったといっても不思議ではないし,また,それに止まらず,バウハウスのような革命的な綱領をもち科学技術に新しい世界の精神を認めるだけでなく,産業と資本主義経済に起ってくる問題の解決能力をもつ新しい技術と計画者の社会の形成を呼びかける学校において,卒直不屈の眼をもって無を見つめ死と戯れる彼が,彼自身の詩想と教育方法に専念したとしても不思議ではない。彼は芸術は人間的伝達の一手段であるべきだと意識していたから,授業することと教育方法の正確さとを厳しい意味で人間的伝達の方法と見なしていた。しかし彼の発想に教育方法論的な様相をとらせたのには,他のもっと重大な理由があった。クレーによれば芸術家の創作の手法は,教授法的な要請を包含している,というのは,彼がそこに存在し活動している世界を認識し,自分の経験の範囲に応じてそれに形をあたえることを学ぶのは,創作を通じてであるから。彼の造形の理論を読めば彼が彼の宇宙観のもっとも深いところえ透徹しようと熱望していたことが明らかに分るだろう。彼は空間と時間を語り,種々の力と重力のことを,求心力と遠心力を,存在の創造と破壊を,個別のものと宇宙のことを語っている。彼にとって重要だったことは,そこで彼自身の存在が自己を表示するところの空間と時間の際限を認識し,自我という出発点から自我のもつ形づくるという意志をもって,パースペクティブを明細に表現し,宇宙という織りものを編みなおすことであった。空間と時間は同時に主観的であり客観的である,それぞれの意味は対象に固定しているのではなくて,これまたはあの空間と時間の点にある対象物の存在に結びついている。それは全く異った空間と時間の条件のもとに,その意味の過去やその未来の可能性に結びついている。もの自体は不確実である。それはあったかもしれないし,もうないかもしれない。ないかもしれないし,これから存荏しようとしているかもしれない。それは究極には対応する線の出会い,未来の空間と時間の暗いひろがりの中での光ってみえる点にすぎないから,また他のものに変り得るものであり,そのものの軌跡はその点を通り過ぎるだろう。現実とは終りのない変貌であり,このことをクレーはボッシュから受けつぎ,カフカとわかちあっている。

 しかし,人間の存在と人間の行動とを区別するなにか,歴史の循環する変化を無意識の変化や偶然から区別するなにかがあり,それは変貌する不安定な形の中で,独立したはっきりした形や,はっきりした光の点をつくったりして,その役目を果している。人間存在には,なんとかして自分自身の運命を支配し,自分自身を知り,混沌における自分の位置を明確にうちたてようとし,終局的には自分を「救済」しようとする目的と意志がある。クレーの理論の全体を通じてたどられる主流は質の探究である。人間が自分自身を正当化し救済するために,発見しようと絶望的に求めるのは,質の探究,すなわち自分白身の絶対的な真正性の探究においてである。なすこともなることもそれが生命自体であり,人がなんらかの質,すなわち存在の意味と価値を得るのは,意識的なまた方法論的な行動によってのみ可能である。クレーの芸術と理論は質の価値に従って世界を再構成しようとする試みだったといえるだろう。そしてこれらの価値はあたえられたものではなくて,偽の経験の集積の中に埋めこまれているのだから,これらの価値を形態の転化,すなわち量を質に還元することによって蒸溜することが必要になる。いいかたをかえれば,世界と人間存在を満たしている量的な現象の集塊を徐々に還元して,それ以上還元不能の不易な最少なるもの,それが質の表現であるものにすることが必要になる。そしてその最少なるものは思索と芸術の制作にのみあらわれるものだが,現実のすべてのものの中に見出されるはずである。たとえば,遠近法は典型的に空間を量的に構成するものだが,それがクレーの絵画と理論において,いかに詳細に組みたてられているかに注意してみよ。また濃淡の量的なグラデーションから色彩的な総譜をうかびあがらせる,ほとんど錬金術的ともいえる処理の仕方に注目せよ。この止まることのない変貌の真の意味はこうである。量的なものは継続的に質的なレベルにもちあげられ,そしてそのレベルは意識のレベルであるから,この最後の変貌は人間の心の中においてのみ起りうる。これがクレーの芸術と理論の人間主義的な基礎である。


 
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