日本の縞文様
近藤 英
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町人の縞

 18世紀初頭武家政治の中心である新興都市江戸において、大名・旗本・50万に衣食住の日常用具を供給するべく集った50万の商人・職人・そして地方の豪商、これらの人達で形造られた江戸の町衆は、身分制の差別を受けながらも経済的基盤を固め、次第に確固たる社会的地位を築き、実力ある庶民として一つの文化を創り出して行っている。

 経済的・社会的地位の確立にともない、遊里を中心とした浪費・豪遊の新興成金的気風からの脱却をさらに進めて、「通」「粋」といわれる洗練された境地を創り上げた、江戸の町人が権力ある武士趣味を「野暮」として、直線で構成された縞文様に粋の感覚を捉え、町人自信の意気を託するものの一つとして、富裕な町人達の間では好んで渡りものの島ものや唐桟が手に入れられ、通人の間では、単純な線と色の組合せの中に緊密な表象を追求した日本的な渋い瀟洒な意匠の縞文様が愛用されていた。

 元禄期を中心に庶民の支持を受けて発展して来た芸能として歌舞伎があるが、この歌舞伎を演ずる役者の好みまたは舞台での衣裳が一般庶民の中で流行を見せ芝翫縞・市村格子・高麗格子・団七縞などと呼ばれた染の縞文様が市松模様などと共に一つの風俗文様として存在している。

 庶民の風俗に画題を求めた鈴木春信・鳥居清長の浮世絵に見るように縞文様を着こなした小袖の女性の姿が多く描かれている。粋な好みの女性の間では特に経縞や格子の文様が好まれたらしく、個性的な直線による文様は粧いによる粋な美しさと共に江戸の女性の凛とした気魂をも表現するのにふさわしいものであったろう。

 庶民の用いた縞文様として織によるものの他に、染を用いたものとして中形染・小紋によるもの、絞り染の斜め縞がある。中形染や絞り染は木綿の浴衣に用いられたもので白と紺一色からなるプレーンなものが多い。

 武士の裃の文様として始り、それが小袖の文様として江戸中期から末期にかけて一般庶民殊に町方の粋な洒脱の雰囲気の中で好まれた小紋の文様は、幾何学線を主体とした細くそして整然とした中に洗練された感覚のものが多い。小紋の縞文様は織による幾何学線と異り、技法即ち染によるものとして分割の線自体が柔らかな表現ではあっても、織の経緯の縞が交錯して創られる立体的なパターン構成と異り平板に陥りやすい。これに加えて小紋の特色である一色染のため単調なパターン構成を避けて俗に毛万筋・養老筋・微塵格子と呼ばれるもののように微細なものが多い。また分割の綿自体の表現を変化させたものとして、よろけ縞・引分け縞・縄目格子・たてわくの文様が見られている。

 小袖の他に縞文様が使われた服飾品として帯・袴があげられる。平安末期小袖の台頭と共に表に出て来た帯は、江戸期に入ると重要な服飾品として欠くことのできない位置を占めてきた。金襴・緞子・繻子・しぼりなどの帯に交って縞文様の帯は弥左衛門間通を祖とする博多帯を主軸として、縞に拈鈷・便化された文様との組合せで独自の渋さと風格をもって存在している。

 本来武士の服飾として縞文様は略式以外は使用されなかったが、縞を用いた袴も野外着を目的とした馬乗袴・野袴に使用されていたものが、序々に常用のものに用いられて来たもので仙台平・五仙平はその代表的なもので極く細い経縞の文様である。

 服飾品以外に縞文様が多く使われたものとして寝具が挙げられる。蒲団は近世以来綿の栽培と共に発達を遂げて来たものであるが、夜具や掛布団には彼の眠りを護るため、また婚礼の慶祝の意味などを含めて、鳳凰・鶴亀などの吉祥文様が配されたが、しかしこれはあくまで上を覆う夜具・布団のものであり、下に敷く布団には上層のものから庶民のものまで緞子・綸子などの高級なものから庶民の用いる紺木綿の布団と素材は種々のものが使われているが、文様としては縞、それも布団のための大柄の洒落た格子文様が広く用いられていた。

 この他庶民の生活に密接な関係をもつ、羽織・合羽・半天・風呂敷・袋物など庶民生活のある所ことごとくといってよいほど縞文様は使われている。

やたら格子文様   襷地に縞の文様
やたら格子文様   襷地に縞の文様

結 び

 日本の縞文様は正倉院・法隆寺に現存する7世紀から8世紀を中心とした中国大陸の第1次外来染織品についで、15世紀から17世紀にかけて渡来した第2次染織品の中における島もののパターンが、古来幾多の服装形式の変遷の後、室町末期における上層・下層の服装の一元化によって完成をみた小袖形式の中に受止められ、異質の文化の中で発展を遂げて来たものである。

 平安期の襲装束の簡略化にともない、下着であったところの小袖の表出によって、小袖唯1枚の中に襲に必敵する多彩な色を盛りこみたい願望から生れた小袖の華やかな絵模様は、桃山・江戸と時代の推移にしたがって、摺箔・縫箔・辻ケ花・友禅染と種々な技法の展開を見せながら、多様な変化を見せる四季の自然物・熨斗・扇面などの身辺の調度また器物・片輪車・家・橋・船などの人工物・または芦手模様にみられる詩歌・物語りなどに広くモチーフを求めて、華麗な表現を見せる絵模様に対して、自然界に見出すことのできない直線で構成される縞文様は絵模様との鮮やかな対比を見せて、日本の基本的パターンとしての確固とした一つの領域を形造っている。

 服装形式の一元化にともなうパターンの多様性は、素材と文様の現わすイメージによって、男女・老若・既婚未婚・身分の上下・職業・季節・吉凶これらのことが厳しく差別された江戸期においては、あらゆる識別と個性の主張が、色と形の表出する文様すべてにかかっている。日本の染織工芸の多彩な発展の原因として服装形式の同一性が重要なものとして考えられる。

 意匠構成においても桃山期の肩裾模様・片身替り・江戸のつけさげ模様・裾模様などに見られる小袖全体を一つの画面構成とする絵模様は日本の室内を飾る鑑賞のための美術品でもあった。しかしこれらのものに対して生活に密着した文様として唐草・小紋などと共に縞文様は小袖の全面パターンとして、小巾2丈の布を肩で折返して形造る小袖の服装構造に適応した文様でもあった。日本の縞文様は江戸末期絵文様が爛熟の中に技巧に走り、創造性の喪失によって類型化の中に生彩を失ったとき、派手やかではないがこの時代を代表する洒落た粋な小袖文様として重要な役割りを果したといわれているが、算崩し縞などに見られるように、江戸末期の繊細な造形感覚に影響を受けているのは否めないまでも、これらながい歳月を経て精選されてきた縞文様を考えるとき、日本の民家建築における格子の美しさが高く評価されていることからも、木・竹などの素材による住空間を持つ日本の美意識の中には、直線によって構成されるパターンに対してのとぎ澄まされた感性が潜んでいるように思われる。

 「形」と「パターン」と相まって発展してきた縞文様は江戸中期より一般化した綿の栽培による「木綿」という素材を得て、庶民の生活の中に広く深く浸透して行ったが、文様自体が技術・技法そのものを母体として、織機の中から生れ出るものだけに、当時の小袖を彩る友禅染・絞りなどによる絵文様と比較するとき、初歩的ではあるが、当時江戸期における量産にむすびついた文様として、文化に接することの少ない、都市を離れた庶民の素朴な生活を彩り、美への感性を高めたものとして現在のデザインに通じる意味をもったものではないかと考える。

参 考 文 献

染織の歴史  三瓶孝子著
日本の染織  守田公夫著
日本の文様  守田公夫著
日本染織文様集 日本繊維意匠センター
能衣裳    山辺知行監修
能芸論    戸井田道三著
世界の文様と
 ジャガードデザイン 伊藤英三郎著
日本文化史 筑摩書房
名物裂の研究


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