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視覚構造の基礎概念について
下村千早  


序文

 この序文は、私のデザイン全般に対する考えと姿勢を明確にすること、およびその結果としての具体的考察の一部が、この小論に必然的に連続していることを示すことを意図している。

 われわれの環境にあってデザインという概念を形成する現象から、デザインの本質とは何かを直観するならば、それは一見ある特殊な経済とか工業とかに密接に結びついているかのように思われる。しかし、そのように把握され、表象されたデザインと他との関係のみを土台とする考察によって導かれる誤診は経済とか工業とかに従属したデザインの形態へ通じる。しかし真なるデザインの本質は、デザイン事象に関係する全領域の目的と機能を決定する。また逆にいえば、デザイン事象が有する矛盾の論理的解決は、デザインの本質をさらに深い意味に発展させる。デザインは、それ自身社会的存在理由を課せられている、という命題がその一本質を決定する。いいかえればデザインは、社会の二つの基本的構成要素である不特定個人としての人間と、その他すなわち環境との関係系の一形態であるということができる。不特定個人は、それ自身他のものから独立して考察の対象となることも可能であり、環境にも含まれてその函数の要素として考察されうるという二重的性格を有する。そして不特定個人対社会という対応的考察も可能である。機能的にみれば、デザインはその両者の間に作用する「力」である。したがってデザインの本質は、その根底から経済、工業に依存するものではない。デザインするということは、個人とその他の集合、環境も含めて、社会との間の関係に、個人の内的性質にもその他の集合の性質にも適した正直な原理を、社会に対して造形の分野で形成する活動をいう。したがってその必然的帰結として、デザインは個人とその他の集合とに同時、同位相的に対応することを要求される。そこに新しい問題、すなわち対応する個人とは、対応する社会とは何かが生じてくる。デザイン現象の対応可能性は、あまりにも個性的な個人、没個性的な個人といった極端から極端に展開されるあまりに広い領域には対応し得ないことは明白である。その結果、一般的な解決は両端の中庸なる対象にそれを対応させることにその方法をもとめる。その論理は、対応すべき対象の計量的類推をもとにする把握であり、あまりにも悲劇的、ある意味では喜劇的結果を生む。そのような方法によって生れるデザインは文化的に、すなわち真なる人間とその社会に対してほとんど意味を持たない。そのとき人間は手段となる。その考えを飛躍することによって、すなわち、真なるデザインは、その対応すべき領域の本質である普遍的個人=人間と対応することによってその問題を解決する。それによってデザインは、特殊化(一般的好み)されるのではなく、真に一般化される。またデザインが必然的に対応しなければならない社会も、同様な形式で理解し解決することが可能である。人間あるいは社会の存在性をよく考察するならば、それら相互の関係は自然、あるいは真理という段階で結合し、同時的同位相的存在となる。振り返ってデザインから人間、社会を考察するとき、それは同一なる対象の内と外、表と裏を指示する概念であることがわかる。したがって、デザインはそのような意味を含んだ対象、すなわち、人間=社会に或る活動原理を付与する行動を意味する。

 さらにまた、デザインは創造的であらねばならない、という性質をもつことをその一本質とする。創造とは、生きていること、成長すること、他に力を及し発展すること等を意味する。創造といわれるものは、知識の単なる累積、況や工夫、機知のみではない。それは生命の本質に関係する。デザインが創造的であることを止めたその瞬間から、その対象としての人間、社会、自然は静止し、固定されたものであり、生きている存在として取り扱かわれていないことになる。そのとき、デザインは応用技術の段階にとどまる。人間、社会、自然は成長してきた。創造的であらねばならないという絶対条件が存在の有無を決定してきたし、これからも決定してゆく。その差異、すなわち、生と死、有と無、創造と応用との差異は何であろうか。デザインの真なる発展、量としてでなく質的発展、あるいは量と質の連続は、量と質の循環は、その差異に依存している。その差異についての考察は、直接的にデザインの存在性についての考察に連関している。

構造概念の形成

 ライプニッツ(G.W.Leibniz、1646−1716)は、その活動が哲学、数学、物理学、論理学、歴史、法律、政治、神学等の諸領域におよぶ多面的独創的思想家であった。数学の分野での彼の功績は、微積分学の基礎原理の把握とその形成であり、力学では力の保存則、最小作用原理などの発見である。ライプニッツは数全体を、数学的問題、科学論的問題、範疇分析的問題、論理的問題、存在論的問題として研究している。ライプニッツの驚くべき多様なる思索が、この小論文「視覚構造の基礎概念について」に関係するのは、彼の数の存在性に関する考察、および記号に関する考察とにおいてである。

 ライプニッツは若い頃の、数を伝統的な見解の意味での量の範畴に入れていた考えを徐々に変えてゆく。「私は以前、範畴なるものについて考察し、同時にまた伝統的流儀に従って量の範疇を関係の範績から区別していたのであるがそれにもかかわらず、事態を一層正確に考察してみた時に、私はそれ自身では何等の名称を構成していないところの単なる諸結果以外の何ものも存在しないということ、したがってまた質の範疇ないし真は偶有的な名称から得られた基礎というものを必要とするような諸関係のみが存在するということが分ったのである。ライプニッツは関係なる範畴を新に導入し、そしてさらに確信的に「数、一、分数は関係という性質をもっている。」「宇宙の中の場所、位置、量、数、比例等は、自ら運動を構成するところの他のものから結果したる関係というものが無ければ存在しない。」以上のライプニッツの言葉は、「関係」の存在形態が、事物の存在形態を規定する量的規定性と本質的に相異することを、はっきりと意識している。そしてその結果、関係なる範疇を区別し、新な意味を与えて使用している。数の関係的性質の正確なる把握があった故にのみ理解しうるのが彼の数学上の多くの業績である。また、数の関係的性質についての考察は、関係の根本的な規定は、同時に数の根本規定であるという数の存在規定に発展する。その結果、数全体が関係の理論であるという一般的結果に導かれる。これは現代という地点から考察するとき、数論のみばかりでなく思惟の対象を問題にするすべての領域において、最も重要で基本的な存在性の範囲の変位と拡大であったことがわかる。

 さらに、ライプニッツは論理学の分野で、思想の形式化において普遍的、形式的記号の適用、すなわち「記号法」の問題を提示している。その問題の考察は「結合法論」(1666)に始まり、後年の「普遍的記号学」に高められてゆく。結合法論の主題である「結合法」の理念は、人間の思想を分析し、それを構成する諸要素を顕示し、その結合によってすべての思想大系の論証と探究を試みるところにある。結合法は、アリストテレスのあらゆる概念を構成する単純で普遍的10の範畴という考えにその端を発し、ライプニッツの、すべての語が26個の文字の組合せから構成されるように、いかなる思想も一定数の単純概念=要素、「人間思想のアルファベット」の組合せから成るであろう、とする考えにある。結合法は、数および、数の関係、数による思考法をその典型とみなして、概念を単純概念=因子に環元し、それをもとに因子の再結合された形式を概念として考えることによって、概念を因子=記号の結合関係に、推論を記号的計算に置換する代数的論理学である。概念の記号化、記号の一般的形式的総合、結合によって単に既知の真理の論証のみでなく、未知の真理をも探究、発見する論理学である。すなわち、ライプニッツは記号の本質を、記号の機能を単に思考や推論の道具としてではなく、むしろ概念および、思考の記号化、形式化という原理にある点を自覚している。

 普遍的記号学は、デカルトの数学における、思惟における解析的方法の援用とならんで、近代以後の科学の記号的認識を基礎とする特色への出発点にあたっている。ライプニッツに始まる記号的認識の傾向は現代に受け継がれ、G.Frege、G.Peano、E.Schrder、A.N.Whitehead、B.Russell等による数論的論理学の成立に影響している。そしてまた、L.Wittgenstein、B.Russellに始まる現代の記号論理学、構文論、形式主義的、操作主義的記号理論、すなわち「論理実証主義」にまでおよんでいる。

 ライプニッツの思索、特に数学と形而上学に見られる例は、数学の自然に対する基本的原理を最も先端的に先取りする分野の一つであるということの好例を示している。それが数学という分野のように非常に抽象化された概念の分析と形式に携わる段階によってのみ可能であることを示している。まさにその点に、何がオリジナリティであるかの本来の意味が示されている。ライプニッツの数の存在性の規定と、普遍記号学の考察の中に、現代数学におけると同時に他の諸分野の重要なる基礎概念となりつつある「構造」概念の起源があることを知る。以上のようにライプニッツを、近代から現代への連続を根本的に基礎づけた創立者と見るとき、私は、ライプニッツを造形の分野においても、また同様に創立者であるという見解をもつものである。

 エルンスト・カッシラー(E.Cassirer 1874−1945)は、近代科学的思惟の構造を探究したその著「実体概念と関係概念」の中で、カントール(G.Cantor 1845−1918)と共に集合論の創始者であるデデキント(J.W.R.Dedekind 1831-1916)の言葉にふれている。デデキントは「数とは何か、何であるべきか」の第一版序文で次のように述べている。「数とは人間精神の自由な創造物であって、事物の相異をより容易に、より鋭敏に捕えるための手段として役だつものだということである。」「われわれが集合を数えるとか、事物の総数を求めるとかいう際に、われわれがどういうことをするかを精密に追究すれば、事物を事物に関連させ、一つの事物を一つの事物に対応させ、または一つの事物を一つの事物によって写像するというような精神の能力の考察に導かれる。この能力がなければ一般にどんな思考も可能ではない。ただこれだけに、しかも全く欠くことのできない基礎の上に数の科学全体が打ち建てられなければならない。」デデキントのいう「事物」は、それ以前に考えられていた無数の性質を有する個々独立の存在、すなわちそれ自身属性をもち、それ自身の存在がそれ自身以外に依在しないもの、自己充足的実体、としての事物の概念とその性質が本質的に異ったものとして考察されていることがわかる。事物は他の事物と比較対応的関係をもつことによって思惟の対象になるという、事物の概念に至っている。デデキントのいう事物─ホワイトヘッドはこれを「永遠的対象」と呼ぶが―は、すべての思惟を可能にする精神の働き、すなわち関係的思惟に立つことによって、事物を機能的、関係的基盤を有している存在として把握している。関連、対応、写像等は、多くの要素=事物の概念を、ある全体的体系に統合、結合するための思惟的配置秩序=函数概念である。事物=要素は、ここにおいてはじめて、全体の、あるいは相互の関係的対象として認識され、思索されることになる。同様のことをホワイトヘッド(A.N.Whitehead、1861−1947)は、以下に厳密に述べている。「A(永遠的対象)それ自身は、全体におけるAの地位を含み、Aはこの地位から引き離されることはできない。Aの本質においては、Aの他の永遠的対象に対する関係には確定性があり、Aの現実事態に対する関係には不確定性がある。Aの他の永遠的対象に対する関係はAの本質において確定しているから、その関係ほ内的関係である。すなわち、この関係はAの構成要素である。なぜなら、内的関係のうちにある或る存在は、この関係のうちにない存在としては存立しないから。」すなわち、すべての永遠的対象=要素は、それぞれ「関係的本質」を持つ存在と考えられている。また、関係なる存在性は永遠的対象を存立させるために必要欠くべからざる構成要素である。ここに、全体におよび他の永遠的対象にその永遠的対象の配置位を決定する関係を、関係的存在性を抽象された永遠的対象を知る。その結果、関係概念および、それに対する諸概念を中心にして事象が考察されるとき、その部分は従来の量的なるものから位置的なるものに変換されることになる。そして事象の同等性は、その属性の同質性によるのではなく、二つの事象=集合の要素の配置すなわち内的関係が等値であるときに成立することになる。対象をより完全に、現実的に認識しようとすることから生れた関係概念は、これ以後それ自身独立した研究対象として扱われることになる。

 集合論に出発を見る現代数学は、いろいろな新しい概念を導入して組立てられてゆくが、それらの概念の中心であり、多くの重要性をもつのが関係概念の範畴に含まれる「構造」という概念である。構造(structure)という言語を数学においてはじめて使用したのは、フランスの若い数学者達の研究集団であるブールバキ(Bourbaki)である。ブールバキは、論文「数学の建築術」の中で数学の構造を建築物、建築材料、建築術等と比較して、それを定義づけている。


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