デザイン教育の課題
阿部 公正
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3.教育制度の改革の中でのデザイン教育

 今日、教育制度の改革、とくに高等教育のつくりかえは、焦眉の課題になっている。だが、そのさい、一般の大学が主な対象として論ぜられるのが通例であって、美術系の大学の問題は、別の視点から取り扱われるべきものとされる。もともと美術系の大学自体においても、美術家の養成という特殊な課題をかかえているところから、この教育を現代的な大学組織のなかに積極的にくりこんでゆこうとする姿勢が欠けていたといってよい。そうして、デザイン教育が美術系の学校で行なわれる場合にも、しばしばこれと相似た傾向が認められることは否定できない。それゆえ、大学数育としてのデザイン教育が改革されなければならない必然性は、他の一般の大学のそれとまったく同じではない。デザイン教育の場合には、共通の根拠をもつと同時に、それ特有の課題をもっているとみるのでなければ、高等教育としてのほんとうの改革ほ行なわれえないだろう。

 デザイン系の多くの私立学校において、たえずカリキュラムを変更してゆくという現象も、教育の進歩を意味するというよりは、むしろ教育理念の欠如を物語るものとみるべきだろう。現実に変動してゆくデザイン現象に対応するために、部分的にカリキュラムを手直しすることは、 デザインと社会とのつながりを密にするというよりは、むしろ現実に進行している産業のもとにデザインを隷属させることとなるだろう。

 デザイン教育を独自のものとして確立してゆくためには、さらにどのうよな点を考慮しなければならないのか。中央教育審議会による基本構想についてみておこう。

 <これからの高等教育機関は、全体として、一方では多数の国民のさまざまな要求に応ずる教育を効果的に提供するとともに、他方では学術研究の水準を高め、それを継承発展させる教育・研究者を育成するとい う役割を果すことができるょう整備充実されなければならない>という <高等教育の大衆化と学術研究の高度化の要請>を出発点とする中教審の大学改革試案では、高等教育機関は次の6種に分けられる。
第1種:一般大学
第2種:専門大学
第3種:短期大学に相当
第4種:高等専門学校に相当
第5種:研究大学
第6種:大学院大学
全体としてみれば、これは、たしかに<多数の国民のさまざまな要求に応ずる教育を効果的に提供する>こととなるだろうが、現行制度ないし形式を維持するなかで、新たな格付けをもたらす結果に終わるだろう。

 ここでの課題であるデザイン教育についてみれば、それは当然第2種の専門大学の部類に入れられることとなるだろう。その特質についてみれば、<第2種の機関は、職業上の必要な資格または能力を与えるにたる教育を行なうもので、標準的な履修年数は、3年程度のものから現行の大学院修士課程の水準をめざす5年程度のものまでとする>と規定されている。したがって、この第2種の専門大学については、<いまの大学院修士課程をもこなすので、一般 大学に比べて、かなりレベルが高 い>とか、<その上に博士課程だけの大学院大学と結びつくから、エリ ート教育につながる>といった批評が多くみられる。

 しかしながら、デザインを教育し、デザイナーを育成する領域においては、<専門>教育が<職業>教育という形をとることによって、かっての<実業教育>へ逆行することになるのではないか。いわゆる<実業教育振興論>と密着した形のデザイン教育では、デザインのもつほんとうの意味での今日的な意義を明らかにすることはできない。法学にしろ医学にしろ、あるいは工学にしろ、それらは当然<専門>教育の対象とされるものであるが、それらの分野には、イデオロギーのいかんにかかわらず、あるいは現実の産業の動向のいかんにかかわらず研究、教育されうる部分がある。また美術についても同様にみることができる。ここで、かっての<実業教育振興論>とデザイン教育との結びつきの危険性を指摘するのは、デザインの分野においては、ほとんどすべての場合、 上に述べたような部分がつかまえられていないからである。その点を明 らかにしないままで、いわゆる技術教育に傾斜するならば、<専門>大学というランクに置かれたところで、それは大学レベルの教育ではありえないだろう。

 いうまでもなく、デザインは−プロダクト・デザインはもちろんのこと、ビジュアル・デザインにしても−今日では生産技術と深くかかわる面をもっている。そうして、生産技術が、一方では既存の産業組織と密接に結びついているものであることも否定されない。だが、生産技術には、他方ではそうした産業組織の動向とかかわりなしにすすめられてゆく部分があるように、デザインにおいても、そのような局面がつかまえられなければならない。デザインをトータルなものとしてとらえるということは、それによって<実業教育>を強化することを意味するのではなく、ほんとうの意味での<専門>教育を確立することを意味するのである。

 それゆえ、デザイン教育の場合には、一般の大学が変革のためにかかえている諸問題のほかに、さらにそれ特有の問題を解決していかなければならない。さきに1、2において述べたことと関連しながら、しばしばとり上げられる問題について、1、2つけ加えておこう。

 ひとつには、デザインと美術を分けるべきだろう。ひとつの教育組織 のなかにあるときは、2つの学部に分けるべきだろう。このことは、デザインと美術とが互いに無関係だというのではない。デザインと美術とが重なり合う部分を見落としてはならないけれども、その部分に依存してデザイン教育を美術教育の一部ないし応用面と考えるかぎり、袋小路をぬけだすことはできない。本来デザイナーとアーティストとは異なるものだ、とみなければならない。 また、デザイン教育を<専門>教育として明確化するということは、現象面におけるデザインの多様な種類や、そのなかでの材質別にしたがって細分化してゆくことを意味するのではない。もちろん、どのような領域にしろ、それを深化させるためには、学問的にも技術的にも細分化しなければならない場合のあることは否定されない。だが、さきに西ドイツでの改革例についてふれたように、全体的な見方なり、インターディ シプリナリーなアプロ−チをぬきにして細分化を進めてゆくならば、それは単に職業化につながるだけであろう。

 <いうまでもなく、デザイナーはパターン・メーカー(Mustermacher)ではない。そうではなく、その能力が正しく認められているような場面 での計画する、責任ある共同者である。とはいえ、かれはエンジニアでも自然科学者でもなければ、また手工作の職人でも心理学者でもない。 かれは、ひとつの分野のスペシャリストとは反対のものだからである。ちょうど建築家が、構造学者や測量 のエキスパートやその他の多くのスペシャリストを必要とするように、デザイナーは、それぞれの課題にかかわる領域のエキスパートと共同しながら、ほとんどつねに専門的なアウトサイダーとして、自分の才能と経験と教養からうまれたアイデアを全体に対して具体化してゆく、という方法をとるものである。その意味では、デザイナーは、技術的、機能的、商業的、もしくは芸術的な諸関係についての先入見と無関係に、ディレッタントでありうる。産業界において、ほんとうの、そして先を見とおした造形の認められるところ(I BM、オリヴェッティ、プラウン社など)ではどこでも、創造的な考えによって、または造形の共同者として、われわれによく知られているものをつくりだしたのは、実際アウトサイダーであったのである。>(W. Braun-Feldweg:Industrial Design heute、1966)

 このような<ディレッタント>なり<アウトサイダー>なりを、まさしく<デザイナー>として固めてゆくためには、デザインを全体的なものとしてつかまえることが必要であろう。そのようなことの可能性をユートピア的とみるかぎり、デザイン教育は、教育制度の改革のなかでふたたび脱落してゆくこととなるだろう。



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