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「ICSID'75 MOSCOW」と東ヨーロッパのインダストリアルデザインの視察報告
金子 至  


●シベリアはすべて雲であった。羽田から新潟を経て、シベリア大陸を横断、モスクワまでは約10時間の飛行予定である。707の機首の翼に落す影は常に一定している。太陽の位置に全くの変化がないように見える。飛行は、引力に対する低抗としか思えない。地球は勝手に自転し、針ほどの穴もない密閉された静止の空間に居る。時間の流れが2倍余の長さになることが算出できても、体感はそのような計算の外にある。昼夜の区別による人間の行動のリズムは、わずかな白昼の時差によって苦痛な時間帯となる。移動の速度は、日本からアメリカ西海岸までの3日間の時間帯が、人間の生理に無理がないとされている。現在の航空機の速度は人間の生理に合わされていない。それを乗り超えた速度にする方法がよいのであろうか、ものをいかに人間に近づけていこうとすることが、デザインであるならば、この飛行時間はデザインされていない。

 この無聊な時間を救うものは、ワインを伴った食事と、色彩と他人の行動(映画〉である。機内食は、食器や盛付にせばめられた条件があっても、視覚のあとの最後の楽しみの味わってみなければわからないデザインが料理である。素材を超えない味付、そしてその深さを私は自分なりの基準としている。エール・フランスのこの日本製機内食は一流に近い。色彩はすべて彩度が高い、スカイブルーとウルトラマリンの縁どり、ソフトな黒の裏のある昼寝のマスクや、紙ナフキンに見る照柿色(注1)〔日本の画材にない)である。救命具の色彩もあわせてカラーハーモニーが完成されている。映画は予想通り西部劇である。その予想は、素朴な人間行動の黒白の明快さと、ダイナミズム、広がりのある背景が何国人であろうともidentityをもつものであるからだ。─雲をついて降りたモスクワは雪が舞っていた。(10月10日 日本時間12:50羽田発、23:20時モスクワ着、現地時間17:20着 気温+2℃)今回の目的は、社会主義国で始めて行なわれる、ICSIDの世界インダストリアルデザイン会議の握把と、社会主義国におけるデザイン活動、およびその生活への道具の現状握把にある。

 厚い二重のダンボールを張り合わせた上に、ICSID'75 MOSCOWとモノクロームで印刷された斜のレイアウト・パネルのある税関の前を通ると全くフリーパスであった。国際会議の参加者に対するソ連国の優遇措置である。それは外交官なみの入国である。一般旅行者はその通過に一人12分はかかる。社会主義国のトラベルはトラブルがつきものだと言われてきている。ビジネスはタテ系列が通っても、ヨコ系でストップすることもある。もし書類がその部署に回っていなければ、当然のことながら行動は中止になる。それに、空港、工場、駅、橋、航空機上の撮影はトラブルのもとになる。撮影禁止区域である。このことだけでも緊張感がともなってくる。

急行"赤い矢号"モスクワ〜レニングラード間寝台車、車体上部の溶接が気になる。  レニングラードの市バス、機能的にも割り切れた新しいデザインである。
急行"赤い矢号"モスクワ〜レニングラード間寝台車、車体上部の溶接が気になる。

  レニングラードの市バス、機能的にも割り切れた新しいデザインである。
レニングラードの市街を走る市電、車輪をかくした優れたデザイン。   革命の号砲が、この旧バルチック艦隊巡洋艦オーロラ号から発した。日本海海戦にも参加(6000t)と観光バス。ホテル・レニングラードから撮影。
レニングラードの市街を走る市電、車輪をかくした優れたデザイン。   革命の号砲が、この旧バルチック艦隊巡洋艦オーロラ号から発した。日本海海戦にも参加(6000t)と観光バス。ホテル・レニングラードから撮影。

 モスクワ着後、落ち着く休憩の場もなくソ連の国鉄"赤い矢号"で、レニングラードへ往復夜行のハードスケジュールとなった。8時間半のノンストップ急行はほとんど平坦なレールの上を巡速で単々と走る。ローヤル・レッドの車外色と、大きめな真鋳のレタリングは国際列車にふさわしい寝台急行である。一車輌毎に年配の女性が働いて、朝方に熱い茶を売る。その湯は、各車輌コーナーのミニマムな石炭湯沸しからであって、石炭燃料としては効率のよさそうな新らしいデザインの釜である。ただし詳細に見ることは許されない。

 朝のレニングラード駅は、8:30時のラッシュ時でもさほど混雑がない。プラットホームの天井は、音響効果を考えた、凹凸のある無音装置をとりつけてあって、静かにチャイコフスキーが流れている。改札口はない。車内に入るにはチケットなしでも入ることができるが、無札は70倍の罰則である。駅舎内部は広く、かつ明るい大理石でおおわれ、中央にレーニンの胸像が、心もち低く広い階段の前にある。正面の壁面には大理石の上に、オールド・ローマンの書体が全体を引き締めている。われわれを待ち受けていた観光用パスは、窓も広く、インテリアもいやみのない余裕あるものだった。外装も日本の観光用のものよりはるかに割切れたデザインになっている。しかしこれはポーランド製である。

 ホテル・レニングラードはもっとも新らしいモダンな国際ホテルであった。アメリカ観光団が多い。レニングラードの歴史をここで語ることは目的ではないが、この都市の呼び名の変化が、即歴史につながっている。1703年ピョートル大帝によって、北方の守りのためペテロパブロフスク要塞の建設の開始から始まっている。1712年モスクワから首都を移し、ロシア正教の聖ペテルと大帝の名を冠してペテルブルグとなり、第1次大戦では、ドイツ流の呼称をさけ、ペテログラードとなり、"世界を揺がせた10日間"1917年10月革命の発祥地となった。

 1918年再びレーニンがモスクワの新都市に向うまでの2世紀間の首都であった。1924年レーニンの死後5日目に、その記念としてレニングラードとなった。フィンランドのヘルシンキまで250Kmの位置にある。ネバ河河口の湿地帯をこのような大都会にした大帝の功績は称えられている。彼の都市計画は、ナポレオンの攻撃によって木造建築の弱さを知ったことと、ベルサイユ宮殿見学後、石造の都市のイメージつくりが出来、イタリア、フランスから建築家を呼び建設が行なわれた。しかし、なかには建築家でないものもいて、様式の間違いや設計寸法の違いなどのみられる建物も、おおらかに建てさせてしまった例もある。

 エルミタージュ美術館(注2)は、ロンドンの大英美術館、パリのルーブルと共に膨大な規模である。建築様式はロシア・バロックであって、蒐集品は250万点にのぽる。レオナルド・ダ・ビンチ2点、レンブラント25点、フランス印象派の作品もかなりあり、ピカソは青の時代を含めて8点はあった。すべてを見るには3日間は費いやさなければならない。第一部のロシア文化と第六部の西欧芸術のみ見学となった。西欧文明の導入に対して莫大な金額が流れたであろうし、そのセレクトは当然のことながら、きわめてプルジョワ的である。

 案内の29才の女性は、標準の日本語を使う。言葉の速度もわれわれと何等遜色がない。"下駄ばきアパート"や"カチドキ橋"という日本語も心得ている。大学での日本文学専攻の彼女は、二葉亭四迷の研究者でもある。"文学論をやりましようか"という流暢さには、われわれの何人かはたじろいでいた。徹底した語学教育がうかがえる。

 レニングラードの街にはロシアがあって、ソビエトという語の印象が薄い。北の西欧である。

 レニングラードから再び夜行でモスクワにもどり、宿舎と会議場でもあるホテルロシアに入った。モスクワの中心、クレムリン宮殿から歩いて5分とかからない位置にあるこのホテルは、1967年に完成された比較的新らしいものであって、6,000室という膨大なホテルである。会議参加登録を行ったが、同じ建物の中でも歩きでがかなりある。今回の会議の実行委員であるソビエトのフィニテVINlTEのノビコフ氏を紹介される。彼は厳かな、しかも礼儀正しい日本語で「金子至先生ですね、あなたのことはすべて知っております。御苦労様でした」私はまったくこのあいさつに二の句がつげなかった。私の25年前の仕事の話が出るのである。粛然となった。

第9回ICSID'75 モスクワ

lCSID'75 MOSCOWの会場入口、ダンボールの表示。
lCSID'75 MOSCOWの会場入口、ダンボールの表示。

●ICSID(INTERNATIONAL COUNCIL of SOCIETIES of INDUSTRIAL DESIGN)国際インダストリアルデザイン団体協議会(注3)は、1957年創立された。日本は(JIDA─社団法人日本インタストリアルデザイナー協会)早速これに賛同、加盟会員となった。当時10カ国12団体であった(注4)。ICSIDはインダストリアルデザインの発展に対する基本的な問題の解決、定義、規準、規程等の設定、UNESCO、UNIDOなどへの協力とともに、隔年毎に国際会議が開催される。この会議は、ストックホルムを第1回として、第8回は1973年10月「人の心と物の世界」のテーマのもとに、2,200名の参加者を得て京都で開催されたことは、デザインに関連した人ならば記憶に新らたなことと思う。

 第9回世界インダストリアルデザイン会議は、1975年10月13日─16日の4日間、モスクワのホテルロシア内にあるコンサートホールで、「人間と社会のためのデザイン」のメインテーマによって開催された。参加登緑は概略35カ国1,850名、ソ連国内1,000名、西ドイツ150名、東ドイツ50名、スエーデン50名、日本48名、ポーランド40名、イギリス12名、アメリカ6名、他にキューバなど。



(注1) 平安時代の色名。マンセル10R7/8に近い。
(注2) エルミタージュ美術館はもと冬宮。1711年建設後1721年増築後に破壊され、建築家ラストレリが1754〜64年に今日の建物を建設、1837年に大火にあって、1839年に大改造された。
(注3) ICSIDは1国3団体以内で6票をもつ。日本ではJIDAと産業デザイン振興会の2団体が現在加盟。
(注4) 1976年現在で加盟国35カ国51団体。


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