ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2013

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2013

2013年2月11日(月)書道は字を書く道である。字であるということはなにか意味のある言葉を書いているということだ。無意味な言葉を書くのも変だが、意味が分からない文を臨書していても面白みに欠ける。雁塔聖教序約800字。あらためて文の意味は何んだろう。おおよそのことは知っていたし、漢文のイメージでぼんやりとはわかっていた。雁塔の法帖には読み下し文というものが各ページに付いているが、これが漢文の直訳の様なもので実に分かりにくい。学生にとってはさっぱりだろう。訳文というものも出版されているが、それすら分かりにくい。そこで、いま出版界で流行っている超訳というものをやってみた。超訳「論語」、超訳「ニーチェ」のようなものである。自分で現代訳をしながら、原文と照らし合わせるとまた新たな発見があった。以下はその自作の超訳である。超訳雁塔聖教序およそ聞くところによれば、宇宙は天と地という二つの形をもっていて、生きとし生けるもののすべてを包みこんでいるという。一方、春夏秋冬の移り変わりは目に見えず、寒暑のような現象に潜んで万物を次々に変化させている。そのため、天地の姿をよく観察すれば、普通の人間でも、それは形として現れているので、その一端を知ることはできる。しかし、形として現れることのない陰陽については、どんな賢者もその本質を知り尽くすことは極めて困難なのである。つまり、天地が陰陽に包まれて存在してることが分かるのは、天と地が形を持っているからだ。ところが陰と陽は天地のいたるところに存在しているにもかかわらずそれ自体を知ることが難しいのは、もともと形というものを持たないからだ。だから、形を持って現われ、自分の目で確かめられるものについては、愚者といえども惑うことはないが、形が無く目には見えないものに対しては、賢者といえども迷いは尽きない。陰陽の道TAOは<虚>を尊ぶ道である。この道は奥深い幽玄と静寂の境地に達しつつ、生きとし生けるものすべてを救済して、十方(全世界)を治めている。そのシナジーは限りなく高く、そのシナジーは限りなく深い。その広大さを押し広げれば全宇宙にまで達し、その微細さをつきつめれば原子から素粒子にまで到る。つまり極大から極小にまでそのパワーは及んでいる。それは滅びることもなく、また新たに生まれることもなく、いかに無限の時を経ても、古くなることがなく、つねに新鮮である。それは隠れているようでもあり、また現れているようでもある。陰陽はこのような存在の仕方を通じて、人類に至福を与え続けて、今なお永く久しく存続しているのである。その力ははるかに深遠であり、これに流されてもその行く先を見ることはできない。、この力の絶えることない流れはとても静かで、この豊かな流れがいったいどこから来たのか、源はわからない。それゆえ、小さな虫のように日々の雑念に追われている凡人や、せこせことした民衆などは、たとえ仏の教えに精進しているとはいえ、そこで疑い惑う者が無いとは言えない。そのような中で西方の地インドでこの大いなる教えが始まった。これが漢土(中国)にまで到達し、王の夢にも現われ、東方の地を照らし、慈悲の大河が流れだすことになった。大昔、大地が混沌としていたときには人はまだ文字を持っていなかった。しかし、人々は自然の教えにただ導かれていたのである。ブッタが生きていた頃はといえば、人々はその徳を仰ぎ慕い、その教えに心から従っていた。ブッタが悟りを開かれ、お亡くなりなった後はその金色の姿も輝きを失い、教えは世界を照らすこともなくなったのである。そして、その麗しい姿はただ絵とか像としてのみ、むなしく表現されるだけになってしまった。今ではブッタの「ことば」は広く民衆にゆきわたってはいる。その教えは広く伝えられ、民衆を多くの苦しみから救うとともに、幸せに導かれるのである。とはいうものの、真のブッタの「ことば」は理解することは難しく、その究極的な根本意義を明確にすることはなおさら簡単なことではない。間違った教えは一般には受け入れられ易いものであるから、ここに邪論と正論が入り乱れる争いが生じた。森羅万象の存在の有無についての論争も、世俗的な枠で論じられ、大乗・小乗の教えも時代の流れに左右されて、めまぐるしく盛衰を繰り返すに至ったのである。今、ここに玄奘法師という者がいる。法門の新しきリーダーである。彼は幼少の時より聡明であり、若くして解脱にいたるまでの三つの道理を悟り、成人してからは四忍の行に励んだ。松に吹く風、水に映す月であっても彼の清らかな美しい姿には及ばない。霊妙なる甘露、輝く明珠も、潤いある彼の風情とは比較にならない。ゆえに玄奘法師の智慧はあらゆる規範を解きほぐし、その精神は無形のものにまで届くのである。さらに知覚の限界を超え出る彼こそは、歴史上まさに双ぶ者無き人物だといえよう。ことに仏法に関しては、正しい法が衰退することを悲しみ、教えついては経典翻訳の不備を嘆くのであった。筋道を立てて教義を整理し、蓄積された先学の教えをより一層広め、虚偽を断ち真教を継承して、後々学ぶ者のためにも道を開こうと願ったのである。そこで玄奘法師は、浄土を心に描きつつ、西域への旅についた。危険で遠い道を杖つきながら、玄奘法師は独り歩みを進めた。朝には積もる雪も吹き荒れて進路を見失い、夕には砂塵が舞い上って方角に迷う。求法の旅は困難をきわめた。このような苛酷な状況にも負けず、玄奘法師は万里の山川を踏破し、困難な道を歩み、寒暖の変化にも耐えて、霧雨のなかをひたすら前進した。彼の強い信念はいかなる苦労も惜しむことはなかった。彼の心はただひたすら仏の深遠な教えに到達することにのみを願っていた。西方の旅をすること十七年。この間、仏教の盛んな土地を次々に訪れ、正しい教えを尋ね求めた。インドの聖地を訪ね、その教化の様と風俗とをつぶさに体験し、鹿苑・鷲峰の奇勝、異景を眺めてブッタを偲んだのである。高僧からは至高のことばや真実の教えを授けられることとなった。玄奘は真理を探り求め、ついにその奥義を極めたのである。仏の道は彼の内部に凝集され、経典は自然に口をついて出るのであった。玄奘は彼が歴訪した国々から重要な経文を携えて帰国した。その数はおよそ六百五十七部にのぼる。今、これを翻訳して中国の地に広め、仏の秀れた教えを伝えるものである。まさにこれは慈みの雲をインドより持ち来り、法雨を降らすが如きものである。66