ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ページ
24/68

このページは 桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015 の電子ブックに掲載されている24ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ディアを、いかに創造的に用いているのかを観察した。その結果、広告におけるお祭り広場の場内放送の用いられ方を観察するという、日常とはおよそ異なるテレビの観方が誘われた。次に取り上げた作業では、橋にぶら下げられたスピーカーから流れる声が、三角州に位置する身体(聴覚)のうえで重なり合い、それが消えるときに周囲の響きが意識に浮上するという、聴くことをめぐる時間的な変化を体感した。そのような新たな音響メディアの利用経験が、明治神宮の参道を移動しながら、主に聴覚と触覚の変化を通じて非日常の神聖な空間のデザインを学ぶという課題設計を可能にした。さらに三つ目として、表面に光を反射させることで、模様や照りを生み出した写真を被写体にするという、実験的な写真作品を目の当たりにした。写真に映し出されているメッセージではなく、写真というメディアそのものへ関心を誘おうとする実験的な利用を知り、透明で忠実な記録・再現のために利用しようとする既成概念や慣習からの解放を求めた、過去の共著論文での問題意識を想起し、再認識することができた。このように日常のメディア利用も時折ふり返りながら、見学・調査などを通じてさまざまなメディア利用を新たに経験すること、そのような経験を講義・演習を通じて広く共有できるように整えること、特に適切な課題設計を図ることで新たな経験を生み出せる場にすること、またその結果をレポート・論文として記述することを通じて、将来の筆者自身も含めて、誰もが参照できるようにすることという、以上のことをくり返しながら、メディアの創造的な利用の拡がりに、地に足を付けて貢献していきたい。最後に本稿をまとめるプロセスで、もっとも参考になった論考に言及しておきたい。ドイツにおける教育思想史の視点から今井康雄により著されたもので、著者はバウハウスの教育思想のなかでも、ヨハネス・イッテンとの対比を通じて、ラスロ・モホイ=ナジの革新性を取り出そうとしている[注12]。その記述と関連資料から浮かび上がるモホイ=ナジの取り組みは、時代と地域こそ異なるものの、およそ筆者と同じ問題関心に基づいた探究にみえる[図K]。バウハウスの予備課程を担当していたモホイ=ナジは、知覚を可能にする身体を「機能装置」と呼び、その遂行能力の育成を芸術の課題とみなした。また知覚を拡張することで、それまで未知であった側面を含んだ、外界とのより豊かで複雑な関わりを実現しようとする。達成すべき目的はあくまでも知覚を拡張することにあり、それまで未知であった外界との、より豊かで複雑な関わりを実現することなので、メディアそのものは手作業的なものに限定される必要はなく、機械的なものであってもかまわない。光による造形や建築、「電話画」(遠隔地からの声を介した絵画のグループ制作)など、彼が書き残したアイデアは、同時代のメディア技術を創造的に利用することに向けられている。こうした創造的なメディア利用を通じて実現するのは、芸術であり、教育でもあり、コミュニケーションでもある。それらは同時代の教育思想の文脈では分断されていたが、モホイ=ナジの教育思想にしたがえば、もはや別のものではなくなる。才能とは知覚の働きをもつ身体のすべてに備わるものであり、身体の育成を担うのが教育であり、それはそのまま芸術の役割だということになる。またメディア利用を通じたコミュニケーションのなかで、知覚をより拡張された身体が育成される。それは教育であり、芸術の経験でもある。モホイ=ナジ自身が実際に取り組んでいたことについては、文献や資料の調査を進めた上で、機会を改めて考察しよう。彼もまた創造的なメディア利用を通じて、利用者の知覚をこれまでよりも拡張すること、そのようなメディア利用を通じたコミュニケーションの拡がりを通じて、知覚を拡張された身体が、より広く現れることを求めていたようにみえるということだけ、ここでは記しておきたい。私たちがメディアの創造的な利用を求めて、上記のようにくり返してきた作業もまた、芸術と教育とコミュニケーションはもはや別のものではないような地点でなされていた取り組みの、その延長線上にあるのかもしれない。22