ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ページ
58/68

このページは 桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015 の電子ブックに掲載されている58ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

と、特に東日本においては、四本の主柱に梁をかけて合掌を組み、その上に扠首(さす)を交差させ、棟木を支える構造(fig.4)が定着していき、それが徐々に全国に広がって行ったと考えられる。登呂遺跡にも、四本柱の住居が復元されている(fig.5)。この頃の柱材は、身近な山林から採取し加工されていたこともあり、それほど太い柱は使用されなかったと思われる。また、柱は掘立柱とし、地面1mほど掘った穴に立てるため、太い柱は必要なかっであろう。(fig.4)四本柱の竪穴式住居また、弥生時代には、棟持柱を持つ建物(fig.6.7)も登場したことが分かっている。棟持柱は「うだつ柱(うず柱)」の発展と言われ、「うだつ」とは梁の上に立てる短い柱「束柱」を意味していた。山梨県では草葺きの切妻造りを「切破風造り」と呼ぶというが、壮大なうだつ柱が妻面に見られる民家(fig.8)が多く、特にそういった柱を「はっぽううだつ」と呼ぶらしい。滋賀県では、同じような柱を「むなはしらや」と呼んだり、長野県では、「うだつや」と呼ぶといった具合に、昔から棟持柱は、特別な存在(fig.5)登呂遺跡に復元された竪穴式住居を表象していた。東海地方では8世紀、関東地方で10世紀までは竪穴式住居の集落が残っていたとされる。8世紀に入ると、平城京では、竪穴式住居が禁じられていたとされ、東日本、西日本では大きな差が生じ始めていた。一本の梯子(柱)から四本柱へと、住まいの構法(fig.6)家屋文鏡などに描かれた住居上の問題はあるにせよ、空間から象徴的事物が消去(fig.7)家型埴輪に見られる棟持柱56