ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

極柱」「建初柱(たてそめばしら)「一番柱」「一の大黒」「亭主柱」などとも言われている。また、奥行きの深い土間では、大黒柱と対になる柱をもう一本立て、「水大黒」「釜柱」「荒神柱」と呼ぶらしい。我妻家住宅< 1753 >(fig.29)は、その例の一つで、上屋柱に竃神(かまどがみ)が祀られている。本来は大黒様を祀るという意味合いがあったものの、それがいつの間にか家族や家自体の象徴的な存在となっていった。そこでは、より太い大黒柱を持つことが、より経済的に豊かな家である証のように、構造上の合理的寸法からかなり逸脱した太い柱が用いられている例が多い。また、大黒柱が登場するのは、近世民家においてであって、それ以前ではないことは重要である。(fig.29)我妻家住宅(fig.30)旧奈良家住宅旧奈良家住宅(1763)(fig.30)は、秋田屈指の豪農として知られる。土間には、八角形に丁寧に仕上げられた柱(fig.31)が小屋組まで伸びる。東北の古い農家では、土間に荒削りの多角形断面の上屋柱を立てることが多いという。社寺建築発展の過程においても同じだが、雜木の丸太が円柱になり、それが工具の発展により徐々に角柱へと発展していく。近世初頭以前では、角柱といっても隅を45度に落とした断面形状が多い。旧奈良家住宅が建てられた18世紀後半には、民家とはいえ、このような豪農では、角柱にする技術は所持していたであろう。そこを敢えて八角形断面の大黒柱にしていることは、東北の厳しい寒さと暗くて長い冬をも耐え忍(fig.31)旧奈良家住宅の大黒柱62