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小袖形式(きもの)の発生
村岡寿枝  


 正月や、成人の日のユニフォームとさえ思える程、若い女性に着られている白い訪問着は、年毎にその数と華やかさを増している。このきものは、日本民族の衣裳として、染織の豪華さと、着装美によって、日本の若い人は勿論、アメリカやヨーロッパにおいても、他の日本的なものと共に認められている。我々がきものの袖に手を通したときに感じる優にやさしい感触や、帯をむすぶときの豪華な気持、羽織をはおるときの落着きなどは、日本人でなければ感じることの出来ないきものへの愛情と郷愁であり、それは、日本の伝統の中で芽生え、育って来たその変遷を、無意識のうちに肌で感じている証拠であろう。

 日本女性の服装の変遷をふりかえって見るとき、その代表とみられるものは、平安朝の優雅な十二単と、江戸時代の豪華な小袖であろう。枚数を重ねることによってかもし出される美しい配色美や形態美が、十二単の本命であるが、この襲(かさ)ね装束形式から、わずか一枚のきものに美しさを出さねばならぬ小袖形式への移行は、それが急激ではなかったとしても、容易なことではないと思われる。きものの近代化に直接つながるこの簡略化をなさしめた平安末期から室町にかけての社会的背景は、小袖の発生にどの様な影響を与えたのであろうか。

 約二百年にわたる足利氏治世の室町時代は戦乱に始り戦乱に終ったといわれているが、この社会情勢は、政治や経済の上ばかりでなく、風俗の上にも大きな変化をもたらした。丁度、第二次世界大戦という混乱した社会情勢の中で、それまでは中衣として上着なしでは着られなかったワイシャツやブラウスが、上着から離れて、様々な形式に変化していったように、平安末期から室町にかけの混乱した社会の中で、他の風俗と共に服装の形式も次第に変化して行ったのである。

 即ち、平安時代にその頂点を見た貴族社会は、服装においても優美さの極に達したが、それは、布のかたまりの中に人間がうずもれているような、非活動的なものであった。十一・十二世紀頃には、下に重ねた桂(うちぎ)だけでも、五枚から十五枚ぐらいの多さで、時には二十枚も重ねたことがあるとさえいわれている。十二単と一般によばれるのは、或時代に十二枚位のものを重ねて着たからだといわれているが真偽は不明である。本来は、裳唐衣装束(もからぎぬしょうぞく)又は、唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)といわれ、その着方は、内衣、袴、単桂(うちぎ)、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)の順で、この下着として着られている内衣が、白の小袖形式のきものであった。

 小袖という名称は、広口袖にくらべ、小さい袖口を持つきもののことで、元来は綿入、袷、単、帷子(かたびら)の如何を問わず、袖下を丸く縫ったものの総称である。貴族社会における古い文献では、礼服の表着の大袖に対して下に着る小袖というのがあるが、単なる内衣であったのか、或は肌着であったのかは不明である。当時の貴族は、広口袖のみを着用したので、脇下が見えたり、風が身体に入る関係から、袖口の小さい小袖が一種の下着として着られていたのであろう。

 貴族政権の衰微と、打続く内乱は、武士階級の台頭をうながし、優雅で非活動的襲ね装束(かさ)(ねしょうぞく)は、活動と機能を本質とし、元来は庶民的な性格を持つ武士の服装に影響されて、次第に上衣をはぎ取られ、本来は内衣で外に現われないはずの下着であった小袖が、表面に現われ始めたのである。足利義政の頃の故実家であった伊勢貞陸が葉した「嫁入記」の中に、「衣裳は、うは着にさいはい菱、白き小袖、うちかけたるべく侯。」とある如く、室町時代も後期になると、小袖はもう上衣の一種とし着られるようになっている。

 一方、下剋上の風潮や、農民の活発な動きと共に、一般庶民の生活も俄に活気をおびて来たが、その庶民服装の中心となって著しく発達したのが、同じく小袖形式の日常着であった。元来、服装の変遷の上において、一般庶民や、労働者の服装の変化は、上流社会のような流動の激しさはなく、いづこの国のいかなる時代においても、実用本位の最も単純な形式が着られているのが常である。優雅な美しさを誇った平安期においても、一般庶民や労働者の服装は粗末なものであった。腰巻状のものをまとった上から、簡単な半襦袢のような手なしという袖なしを着た労働者や、筒袖形式の小袖と袴のような下衣を着ていた一般庶民の服装は、室町時代あたりになると、袴もつけずに、小袖の上に簡単な裂地を腰の回りに巻いただけのものも多く見られるようになった。

 このように、貴族社会において下着であった小袖と、庶民の平常着であった小袖とが相たでさえて、室町時代という激動した社会を背景としながら、因襲的な服装をはねのけ、複雑なものは簡単にし、優美なものは実用本位に変えて、近代における日本常用服の基礎を形成したのである。

 本来は下着として白地であったこの小袖が表着化され、服装の中心となると共に、桃山・江戸時代の染織の発達と相まって、色、柄材質共に豪華な衣裳を作り上げていった。その時代の社会を反映させながら、袖丈や身丈或はふきなどの部分的な変化や、着方の変化が行われたり、名称も、江戸中期には「きもの」と呼ばれるようになったが、小袖本来の構造は変ることなく、今日の訪問着へと移って来たのである。



≪参考資料≫
 
日本衣服史   永島信子    
日本服装史   和田辰雄    
講座日本風俗史   第一巻
第二巻
第三巻
 
 
 
服装の歴史   村上信彦    
図説日本服飾史   日野西資孝    
小袖解説   山辺知行
北村哲郎
田畑喜八
共著
 
 
きものの歴史   石田茂作    
図説日本庶民生活史 3 南北町─室町


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