編集後記

 この「研究レポート」は、最初から二つのねらいがあった。一つは桑沢の完全な学術的紀要へのアプローチ、及び桑沢内の各分科会間の交流、他は将来の桑沢出版刊行物へのアプローチである。前者は桑沢に於ける教員の研究発表の場として必要であり、後者は桑沢的デザイン教育理念の社会へのコムニケーション及び多少のプロパガンダとして意味があるという訳だった。ところが、どうやら「二兎を追うものは一兎をも得ず」ということになったらしい。編輯者としての不手際を恥じる次第である。

 先づ「紀要」としての性格に立って見ると、今度の「研究レポート」は、やや純粋な研究の成果というワクからはづれている論文が多く、又力のこもった発表が見られないのは残念である。多方面にわたるデザイン各分野の学問的追求は今後ますます必要で、将来は一定の権威ある方式で提出論文が審査されそれをパスしたものが「紀要」に取り上げられるようにして、その発表者が「研究レポート」に掲載されたことで、実蹟として確実に評価出来るものにせねばなるまい。若い方々はその研究の方法、発展にあたっての論文の要約(独自の研究内容にうまくしぼること)のしかた等勉強されるよう望みます。

 次に、雑誌的性格の側から見ると、何ともはやこちこちのスタイルということになる。最初「紀要」的性格を強く出すつもりで、論文を募集したが、締切日が来て申込まれたのは魚住氏唯一人という有様だったので、急いで「紀要」のタガをゆるめて、ともかく第一回を、発刊責任者を決め全分科会に御願いした。 これは各分科会から原稿が出ることにより、桑沢の全メンバーが、これをきっかけに、こうしたことに関心を寄せて下さるだろうと期待したからだった。これがやや成功したといえばいえるらしく、御覧のとおり各科から楽しい原稿が14編も集った。そんなこんなで、桑沢の刊行誌的なものへの方向は多少匂ってはいるが、つまるところ、これは紀要的スタイル中に雑誌的な内容をもった、悪くいえば中途半端な奇型児が出来た訳である。でも林先生始め、矢野目、海本さおり両先生と力を合わせ、それに最後には須賀先生にも手伝っていただいて、よくいえば、ユニークで面白いタイプの紀要が創造されたのも知れない。期日がせまり、編輯の仕事に追いかけられてる時、矢野目先生が火災にあわれるという事態がおこりスタッフ一同あわてた。おおかたの御期待にそえない物が出来て面目ない次第ですがこれが今後の発展の土台になることが出来れば幸いです。なお、来年度は1965年中に発行したいと思いますから、皆さんの御協力を御頗いします。

 1964年度研修委員会「研究レポート」
 編集委員(郡山記)1965 2,18.