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 バウハウスははっきりしたプログラムをもっていた,それは,工業技術がただ量的な意味でのみ発達した産業において,質的な価値の探究を恢復すること,そのようにして自律性と真の存荏の創造的な可能性を保持し,最終的には,段々と画一的なマスとなってゆく社会において,個人の自由を恢復することであった。しかしこのような質の価値とはなんだろう。バウハウスのとった態度にはこの点において両義的な不確さがあった。最初のワイマルにおける時期には,ヴエルクブントの目覚めに従って,苦の手工芸の特徴であったようなテーマと方法を再検討して,伝統的な美的価値を新しい工業技術に適応できるように,一つの図式的なシステムの中に縮少しようと試みた。第二のデッサオ時代には,オランダのデ・ステイユのグループの範例にならい,形態の抽象的な考え方,人間存在の最高に理性的な性質のイメージとして撰択した形を数理的に合理化することにより,質を求め た。はじめの場合には,生産の量を増大させる一方で,ある種の伝統的な実の価値を保存することに注意が集中された。第二の時期には,質は概念的な抽象におきかえられて,生産には範例の量産がまかされた。このように質をたんにモデルとみなすか,または対象に内在するものとしてあってそれ白身表現する価値とみなすかという点に,かの有名なグロピウスとテオ・ファン・デスブルグの対立が生じた。これが一つの原因となって,のちのバウハウスはより建設的な方向へ変っていった。

 クレーは質についての考え方に全く新しい基礎をあたえた。彼はそれを自律的で絶対の価値の探求とし,その価値は量からでてくる ものであるが,量そのものとは関係のないものと考えた。彼にとって質とは,個人の繰りかえしのきかない,独自な体験の最終的な産物である。人は深層に下降し,人の行動の秘密の源泉,すなわち無意識界に漂って強く人の意識と行動を支配している神話と追憶を段々と明るみにもちだすことによってそれを得る。無意識の深みに下降するほどに開けてくる質的なものの世界は,すでに死んで確立された形態の世界ではなく,生誕する形態の,形成の世界である。そしてもはや,現実的な対象と想像的な対象との間を区別することは認められないのだから,それぞれのイメージは,体験と存在の一瞬間であり,もはや固定し分離した表現ではなく,ほとんど肉体的といってよい生命力を保持している。弱い受身の形から,また人間の自由を阻む慣習と記憶 からよりすぐれた形への転移は,そこにおいて自由はその最高の表現,すなわち創造をするのだが,イメージの中で完成させられる。 イメージは個人の真正な体験,世界における彼の存在の瞬間の表現として生きつづけるだろう。それは個々の人間の間の合言葉となり,社会の成員の間を結びつける必須の環となろう。

 クレーはモンドリアンとちがって,理想的な社会は考えない。彼は未来のユートピア的計画よりも,人類の現在と歴史の中に,共通の理解のための理由を求めることの方を好んだ。彼にとって,社会における個人を結びつけているものは,古い絆,すなわち,部族の精神,無数の信仰,恐怖,神話,魔術的な儀式,迷信とタブーといった絆であり,またこのようなものは,彼らを自然と宇宙に有機的に結びつけている絆でもある。クレーのモティーフをみてみると彼は,個人は単細胞的に孤立した存在ではなく,逆に無意識の神話の中に人間存在共通の根があることを発見しているのがわかる。しかしクレーの理論に含まれている広大な宇宙論的イメージによっては,彼の絵画にあらわれている形やサインを象徴的にまた語義的に解釈することはできない。それはむしろ,これらのイメージやサインのひとつひとつが含む真実を,みる人自身の経験に従って読みとり,自分自身の存在のリズム中にそれを置くととろを見つける,そしてそれでもなお誰にとっても同じ意味の真実さを失わないということを説明している。

 バウハウスにおけるクレーの授業の本当の意味を理解したのはマルセル・ブロイヤだった。ブロイヤのおかげでわれわれは,クレーのイメージの世界がインダストリアル・デザインにおいて不可欠の要素となっているという事実を知ることができる。1925年,ブロイヤのデザインになるパイプの家具は,糸のように細く,ありえないようなしかし誤りのない均衡をもって吊られた精密な機械的な装置である。まるでそれは瞬間毎にやってきてそれの占めない空間の中に消えてゆくかのように,静かなどうともとれるような力をもっていきづいている。それはたしかにクレーの神経質なそして強烈な描画,彼の描線にこめられた力の流れから生れたものである。この家具は,クレーのイメージがその傾斜したパースペクティブをもち,つみ重ねられた色調の深みに揺れ動く空間の中に宿っているように,人間の室内で生きている。この家具も,目には見えない空間の力学から生れ,精確にその機能を果しながら,種々の関係が明らかにされ種々の価値は純粋で透明な質になるような,新しい次元の輪郭を形づくっている。

 クレーはグロピウスが去ったあとも,続けてバウハウスで教えていた。ドイツの保守派はナチズムに傾き,学校の生活はだんだん困難になった。たぶん彼は,バウハウスの計画を支えていた理性主義的な理想は,事態の緊張によりすでに崩されたけれど,彼の体験に根ざし無意識の無形の内容の恢復をねらう,定式化きれない理論という考えはなお生き残って,政治的な非合理主義の爆発に対する武器として役に立つと感じていた。彼自身は,どうすることもできず,いろいろの事件に圧倒された。そしてもし歴史的事実に照らして,モンドリアンの詩想がユートピアの詩想ととみられるならば,クレーのそれは夢の詩想ののようにみえるだろう。しかしこのような外見は誤っている。クレーのそれは夢ではない,死も夢もやはり現実なのだから,夢の域 さえも超えることを恐れないような体験を一つ一つ証明するものである。第2次世界戦争後に戦前の世代の功罪が洗いたてられ,合理的理想主義がレジスタンスを弱め,ヨーロッパの知性の敗退を準備したと非難されたとき,理性主義の「超克」の芽生えはすでに,クレーの作品と教育にあったと考えられた。しかし「超克」という言葉は理性の否定や理想の否認を意味するのではなく,理性的な存在に究極的な視野をあたえ,失はれた空間と時間から生命をとり戻すという絶えまない過程としてそれを表現するものである。このようにクレーの詩想と方法論は,彼の生きた痛ましい時代とは全くちがった時代においても有効である。たぶん,多年隔たった今日ヴォルスが彼の絶望からくる残忍きを僅かの人間的な憐れみをもって和らげることができるのも,またデュビュッフェが彼の社会的なシニシズムに僅かの優しい調子を加えることのできるのも,クレーの詩想と教授法,エラスムスとデューラの根本的なヒューマニズムに負うものだと思われる。


 クレーは1933年の4月,デュッセルドルフ美術学校の職を解かれた。この年は多事多忙だった。警察はクレーの住居を家宅捜索した。彼の絵は「退敗的」な芸術として展示された。彼はその年のクリスマスの前,途中パリでピカソに会ったりしてスイスに帰った。ベルンは彼の故郷であり,そこに父と妹たちが住んでいた。まもなく彼は不治の病にとりつかれる。・・・・・・


 
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