デザインにおける基礎について(その二)
郡山 正  


 先に、私は「基礎」の概念に二様の異る理解があると書いた。一つは「専門への初歩段階」という考え、他は「デザインのための絶えざる栄養」という理解である。そして日本人には後者の理解が極めて困難であると結論した。

 何事でも、やさしいものから順序よく教えられれば、やがて困難な専門的力量に到達するので、あらゆる教育のシステムは、そのように組織されている。だが桑沢で強調している基礎は、そのような物事の第一段階としての基礎を特色として歌いあげているのではなさそうである。それはデザインというものの有する現代的な、また将来を予見しての特質に対する鋭く深い洞察によるものであると信じている。即ち、新らしい社会への適応、また形や色に対する、より分析的な、より純粋な態度を、習性として与えることによって、型にはまらない創造性のあるデザイナーに向かわせようとする教育を指しているのではないかと思う。このような教育は、直ちに実用的でないという危険に直面している訳である。下手な面だけ見れば、桑沢は2年間に、使えるデザイナーの一かけらも与えず、色や形の遊戯と生かじりの知性だけを身につけて社会に出ているということになるだろう。

 だが物事の短所は直ちに長所でもあるのではないだろうか。こんな危険な、一見馬鹿みたいな職業教育は、どこにいっても無い筈だから、新鮮といえば新鮮である。何の役にもたたないかも知れない形や色を、あくことなく追求する阿呆みたいな学生が、うようよしている学校が存在していることは、私などから見ると嬉しい限りである。「パース」一つ画けない奴とか、図面さえろくに引けないなさけない状態などと目に角をたてなさんなといいたい。常識的職業教育に逆もどりした桑沢など何の魅力も感じない。

 私は基礎が絶対であるといっているのでは勿論ない。だが桑沢が当初にもっていた、デザインの基礎という考え方は、色あせてよい性質のものではないと思うのである。教育とは「生き物」であり、熱心な先生と学生がいると必ず、それなりの立派な実を結ぶものである。それは遠い将来かも知れないが、よい実ならばそれでいい。私の父は教育者だったし、私もまた心ならずも30年に近い教育の経験者となったが、はっきりいえることは、高慢な心では教育は出来ないということだ。教えてやろう等とはとんでもないのであって、ただ自分の真実と誠意でぶっつかることだけだ。他人に責任をなすりつけないことだ、思った成果が上がらないのは、結局自分が悪いのだ。(この稿つづく)