ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

私たちは通常、写真を利用する際に、あくまでもそこに映し出された情報の内容やメッセージに目を留める。メディアとして使い慣れるにしたがい、それと引き換えに、情報の形式や物質としての水準には目を向けなくなる。もしそれが存在していなければ情報内容もメッセージも失われてしまうにもかかわらず、いまや単なるフレームやスクリーンとして扱われてしまう。高松による探究はあえて写真の物質性へ照準し、視覚を通じてまるで触覚的に知覚させることで、改めて存在感を与え直そうとしている。ただし、このような実験的で創造的な利用にも、一定の制約もつきまとう。「写真の写真」は鑑賞者の視線が通過してしまい、透明な記録・再現のメディアとして扱われやすい写真の存在を、物質としての知覚を通じて、あえて認識させようとした。すると今度は「共に映し出されている周囲の壁や床、テーブルと等しいモノ」として写真の存在が意識へ浮上する代わりに、そのメッセージを実現可能にした、この作品における物質性の水準は再び、鑑賞者の意識の外へこぼれおちてしまう。改めて写真の存在を意識するときに、この作品がほかならならぬ写真によって実現可能になっていることを意識するのは容易ではない。高松が「写真の写真」を制作したのは、限られた一時期だけのことであったと聴く。彼自身もこのアプローチによる探究の限界を意識していたのかもしれない。以前、筆者が共同研究者と執筆した論文は、じつは高松と同じ問題関心から、ことばを通じて取り組んだ探究であった。そこで選ばれていたのは、利用時に写真とはみなされないもの、いわば非-写真との境界を問うことで、写真について考えるというアプローチである[注11]。「写真を写す」(シャッターを押せる/押せない、画面に入れられる/入れられない等)、「写真にする」(現像する/しない、プリントする/しない等)、「写真を見る」(眼を留められる/留められない、解釈される/されない等)など、写真というメディアが結果として成立するまでに、最低限欠かせない利用行為毎に、観察と記述をおこなった。その結果、画像技術を用いる際に、写真としてとり扱われるのはいくつもの条件にしたがう場合であり、少なくとも写真としてみなされるのは、かなり限定的な場合に限られることが示された。写真について考えるために、あえて非-写真との境界線を探るのも、高松のように写真に目を留まらせるために、あえて写真の物質性を強調するのも、写真利用の可能性が、これまでのものに尽きることはないと考える点で、同じ問題関心に基づいている。ただしカメラを用いた撮影・現像・プリントを標準型として前提にしている点で、私たちと高松の探究はいまからみると旧時代的・旧メディア環境的であるかもしれない。例えばしばらく前からピンホールカメラなどを用いた作品制作が現れ、必ずしも既製品のカメラ使用を前提としない利用法が、子ども向けのワークショップなどでも広く見られるようになった。また写真機能が付与された端末の普及が進み、誰もが日々メールを書くように写真を撮る環境がすでに整いつつある。それでもなお、写真家の個性の理解や撮影される被写体の分類へ急がずに、あくまでも日常的な写真利用を観察し、またそのことが写真というメディアのより創造的な利用へつながると想定していた探究は、その後もあまり例を見ない。未だに写真についての議論は、戦争写真家、鉄道写真家などの名称がよく示しているような、被写体として何が映し出されているのかというメッセージの水準に終始してしまいやすい。また講義の受講者によるレポートを見ても、記録とその再現が前提となるメモ代わり写真や証拠写真、撮影者が過去に体験した出来事を想起するための思い出写真としての利用が多い。今後も実験的な取り組みの発掘・発見をおこない、成果の共有を図ることから、写真利用をめぐる既成概念や利用慣習から解放される機会を生み出していきたい。5.まとめ:私たちのメディア利用の探究とモホイ=ナジのバウハウス予備課程のあいだ。上記を簡単にふり返っておこう。まず最初にとりあげた探究の作業では、いつもとは異なる映画作品の観方をおこない、工場の館内放送という音響メ21