ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

き、同じ頃海外雑誌記事の翻訳や、評論、執筆活動を開始する。1941年(昭和16)には海外工芸事情の調査および翻訳担当のために工芸指導所嘱託となり、1943年(昭和18)に応召によって同所を退職した。戦前から『工芸ニュース』の記事を執筆しており、戦後になってからデザイン評論の執筆を本格的におこなうようになる。民藝運動への勝見の言及は、1944年(昭和19)の「工芸の生態」にみられる2。この記事は、当時の「工芸」の状況全般について批判的に述べた文章であった。批判の対象は、当時の工芸における「産業工芸」、「美術工芸」、あるいは「民芸」(民衆的工芸)といった方向性の分裂であり、あたかも工芸が複数の分野にわかれているかのようにみえる状況についてであった。勝見は、柳田国男の「常民」ということばを引用しながら、「工芸の核心は常民の日々の生活の造形的な表現」であり、この核心、すなわち、工芸の唯一の本質に基づけば、諸本質に基づいて諸工芸を区別することはあり得ないとする。諸工芸の本質的な区別はありえないと勝見は主張したが、民藝運動の主唱者である柳宗悦(1889-1961年)は1928年(昭和3)に設立された工芸指導所の方針や活動に対してしばしば非難ととれる意見を述べていた。勝見はこの記事が発表されたときはすでに工芸指導所を退職していたが、在所当時から両者の間にある亀裂を客観的にみていたようである。「筆者が少しく産業工芸の中枢といはれる商工省の工芸指導所に関係して見て驚いたのは、そこに民芸運動との間に余りに大きな疎隔が存在したことであって、実は私の考へなどでは、民芸研究の成果が直ちに工芸指導にとり入れられ、逆に工芸指導上の要求が直ちに民芸研究の主題を提供する、いはば車の両輪のごときものであらうかと想像してゐたのであった。」勝見は、工芸指導所と民芸運動における亀裂の原因を次のように分析している。「…その発生した原因は恐らく一方において工芸指導所といふ機関が、かの世界的経済不況の時代にいはゆる輸出工芸を目標として出発したといふ歴史的素因によるものであり、他方民芸運動が自から標榜するところの常民生活の歴史観を、十分深く掘り下げずに終わったといふ点に存するように思はれる。」確かに工芸指導所は1928年(昭和3)に仙台に開設された当初、その設置の目的を、海外市場へ輸出するのに適するように工芸を指導奨励することとしていた。つまり、明治期の産業振興政策を引き継いだかたちで始動した。地方の伝統工芸の安易な機械化、量産化は民藝からの批判の的となるわけだが3、人々の手にわたる日用品の質の向上が第一の目的とならない、つまり生活が工芸指導の眼目とならないことは、勝見にとっても「工芸の核心」からはずれることであった。翻って民藝の現状をみてみると、民藝は都会の生活者からはかけ離れた「異国趣味」、「骨董趣味」になっており、「民藝」としてすでに形骸化している。つまり、民藝は柳らによって民藝として発見された時点で人々の実際の生活とかけはなれてしまうという矛盾をかかえ、現にそのような状況をうんでいるということが勝見に民藝批判というかたちで指摘されていた。民藝は、あくまで民衆自らがつくる民衆のための日用品であるはずであり、民衆に供するためには、量産とそれにともなう廉価がもとめられる。そのため、勝見は、「民芸といふのは、過去の、または半ば過去となりかかってゐたところの産業工芸に他ならないし、産業工芸とは今日の民芸でなければならない」という。しかしながら、かたや工芸指導所の工芸は経済発展のための輸出振興という文脈にあり、かたや民藝は実際の生活に使うにはそぐわない品物をつくりだしてしまっ25