ブックタイトル桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

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桑沢デザイン研究所教員研修会研究レポート2015

ている、つまり両者とも「生活」には立脚していないため、方向性が乖離してしまっていると言うのである。1-2.「工芸」と「生活」以上のように、勝見の民藝への批判は「生活」という視点からであった。ただ、工芸を生活ということばと結びつけて語るのは、当時、勝見に限ったことではない。そこには、それまでの工芸観の変遷が背景としてある。日本において工芸という概念が形成されるのは明治期以降のことである。詳しい話はここでは省くが、工芸という概念の形成過程の端緒は、西洋のfineartの受容を契機とした「美術」概念の形成過程と深く関わっている。端的に言えば、「「美術」なるものの純粋な在り方が―「絵画」至上主義のかたちをとって―追究されてゆく過程で、いわばそのネガティヴとして「工芸」という枠組みが生み出されていったというのが実情」4である。明治期において工芸が取りざたされたのは、日本が近代化をおしすすめるために必須であった産業振興の手段としてであった。そこで工芸は、あくまで伝統的な手工品という範疇にありながら、近代工業技術industryの意味と結びつけられた。その意味で明治期の工芸概念の形成は、機械生産に先立ってかたちを決めるという意味での、日本における近代的な「デザイン」の萌芽とも軌を一にしている。しかしその一方で、工芸ということばは、工業や工学ということばとの対比から、伝統的、手工的な意味でも用いられることもあった。このように工芸は明治期以降、あるときは美術との関係から、あるときは工業との関係からその意味が考えられたが、さらに大正期以降からは、工業とは異なり美術的技巧を必要とする、つまり図案を必要とする工芸の明らかな工業との分化や5、高価な鑑賞品とはちがう工芸の経済的、社会的意義がさかんに論じられるようになった6。工芸の意義を問う議論や言説は、民藝運動のような在野の工芸運動、国立工芸指導所に代表される「産業工芸」、生活様式の合理化をめざし官民で展開された生活改善運動、あるいは欧米の近代デザイン運動の受容といった諸「運動」の展開とともにあり、工芸を、「民衆」、「生活」、「実用性」といった概念と強く結びつけていった。それは、第一次世界大戦による経済の好況、産業の発展が契機となり、明治期以降の近代化の対象が本格的に民衆の日常生活におよびはじめ、生活こそが近代化を体現する場となったことを意味している。さらには好景気のあとの昭和初期の経済不況も、合理化という側面から日常生活のみなおしを進めた。そうして当時の工芸品は、日本の造形の伝統を再発見するという方向からにせよ、量産化による安価な機械製品をめざす方向からにせよ、西洋の生活様式を日本に移入するという方向からにせよ、民衆の生活を生活足らしめる日用品や道具という意味を帯びるようになった。工芸の意味の拡張あるいは変容に対峙し、日本における近代的な造形ジャンルの整理を試みた人々は、常に工芸の地平を問わざるを得なかったとも言える。勝見もまたそのひとりであった。生活が工芸の課題となっていくなかで、柳宗悦らによる民藝運動は特異な工芸論を展開した工芸運動であった。民藝運動は、1926年(大正15)の「日本民藝美術館設立趣意書」をもって嚆矢とする。無銘品の美の発見から理論を出発させる民藝運動は、同時代の工芸指導所を代表とする産業工芸の流れや美術工芸のアカデミズムとは異なる立ち位置を示していた。民藝は「民衆的工藝」のことで、まさに民衆自らがつくる民衆のための日用品の意味であり、その意味は、生活にねざす工芸という勝見の視点と異ならないように思える。ただ柳は、生活ということばを「用」ということばに置き換え、用いる/用26