ブックタイトル桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.44 2016

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概要

桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.44 2016

42「培相」の再起動について佐藤 竜平 | 造形担当Ryuhei Satoはじめに 本研究は1990 年代半ばから5 年ほど続けた「培相」という連作の再開を試みるものである。本稿では、この連作の概略を説明し、再開にあたって解決されるべき問題点を明らかにするとともに、その解決策の試行結果を報告する。培相の背景 「培相」とは、「相=様態としての形」を「培う=形が持つ力や性質を展開させる」ことを意味する造語であり、私が自らに課した「演習=手続き」の名称である。「表現」や「描画」ではなく「手続き」という言葉を使うのは、「絵画をめぐる言説史」について私が以下のように考えているからである。通説を援用しつつ、まずは簡単に説明する。 19 世紀半ば普及した写真技術は、絵画の存在意義を揺らがせた。目に映る世界を平面上に投影される光学現象として「像化」することが写真技術によって自動化されると、絵画の制作プロセスは「像化」と「描画」とに切り分けられ、前者が後者に先行するとみなされるようになる。描かれる前に世界の「像化」が完了しているとすれば、「描画」は冗長な反復ないし模倣でしかなくなってしまう。たとえば印象派が、写真と同じく光学的な現象を主題としながら、その「うつろいやすさ」を前景化することで確定的な「像化」を拒んだのも、そうした「描画の危機」への対応と考えられるだろう。 冷静に考えれば、技術の進歩が従来の表現形式を危機に追いやることは当然のことである。いかなる技術であれ、新しい技術に対抗して生き残ろうとするなら、自らの優位点を探し出さなければならない。またいかなる媒体であれ、正統性と信頼を保とうとするなら、絶えず自らを点検・評価しなければならない。たとえば絵画と彫刻の間でも似たような論争は常にあったし、絵画に取って代わるかにみえた写真そのものが、20 世紀に入ると絵画の代用にとどまること拒み、独自の表現を模索し始めた。こうした葛藤は技術や媒体に多様性があることの証左として、むしろ歓迎するべきだろう。 けれども、自己批判の積み重ねが「進歩」する歴史として編纂され、これがさらなる継続を強いるとなると事情は変わってくる。後戻りや枝分かれ、そして繰り返しを許さない「進歩」に駆り立てられた自己批判は、やがて自らのすべてを吟味しつくし、自らを端的に特徴づけることだけを選び出し、それ以外の性質を排除するに至るであろうからである。20 世紀に入ってヨーロッパが戦火に焼かれる中、絵画の中心地がアメリカへと移動したとき、絵画が抱える葛藤は「進歩する自己批判」として歴史化され、この歴史のさらなる進歩が新天地で展開されると考えられた。 それ以降の絵画は、表現形式としての独自性や正統性をより確かなものとすべく、「自律性、純粋性」というエマニュエル・カントの批判哲学から借用された概念をものさしとして測られるようになった。自律とは、自らが従うべき規制を自らの内部にのみ