ブックタイトル桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.45 2017

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概要

桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.45 2017

家事や育児に関する知識を、教育というかたちで女性たちに提供した3。小泉和子著『女中がいた昭和』によると、「大正の末から昭和戦前という時期は、歴史上、もっとも家事が大変だった時期」だという。家事の負担を大きくしたものは、特に大正期末からの「家事の高度化と煩雑化」4であった。明治以来、家事のための新しい道具や技術が特に中流階級の住宅に広がることになった。それは一見便利さをもたらし、家事が「高度化」したかのようであったが、それらの道具や技術を使いこなす手間の多さを生じさせることになった。また、中流階級の住宅における洋風化の広がりは、例えば洋室と畳敷きの和室が併存するといったように、住宅における和式と洋式の混在をまねくことになった。それはすなわち、家事の多様化、煩雑化を意味した。新しい生活様式によって家事の負担が過大になった主婦のために雇われていたのが「女中」である。日本では昭和初期まで中流階級と呼ばれた人たちの家庭に女中がいることが珍しくなく、主婦の仕事において女中のマネジメントは大きな位置を占めた。実際に『婦人之友』でも創刊当初から女中に対し主婦は「監督」であると明言されている5。女中の存在は、「収納」に注意が向けられる理由の一つでもあった。小関孝子は、明治期以降の雑誌・書籍の出版状況から出版界においても「家庭」ということばが流行したことがわかり、『家庭之友』がその流行にそったものであると述べている。また、『家庭之友』の記事が近代的な新しい家庭を実現するための具体的な方法、特に、後の生活合理化につながるような家計管理や時間管理の方法をはやくから提示していたこと、そしてその実践の前提には、羽仁もと子が女性の家庭からの解放ではなく、家庭のなかでの女性の地位の向上と、対等な夫婦関係による家庭の形成という「脱封建」を目指していたことが指摘されている6。『婦人之友』は『家庭之友』の編集方針を引き継いだかたちで創刊された。誌名があらわすように、そこでは「家庭の担い手としての婦人の啓蒙という要素が強調」7された。明治期中頃以降、数多くの女性雑誌が刊行されており、大正期には特に、『婦人公論』(中央公論社、1916(大正5)年)、『主婦之友』(東京家政会、1917(大正6)年)、『婦人倶楽部』(大日本雄弁会、1920(大正9)年)といった婦人雑誌の創刊が相次いだ。特にこれらの雑誌の発行部数は大正期末には十万の桁に達していた8。大正期に婦人雑誌の大衆化を促した背景には、女学校教育の普及や、都市に居住する「新中間層」と呼ばれた階層の拡大がある9。当時刊行されていた婦人雑誌のなかでも特に『婦人之友』や『主婦之友』は、家事や育児に関する記事が多数掲載されていた。どちらの読者層も、新中間層の「主婦」であった。ただ、『主婦之友』は新中間層の「中・下層」を対象にしたのに対し、『婦人之友』は読者として新中間層の「上層部分」、つまり知識層を意識していたことがわかる10。『主婦之友』は、創刊時から「家庭生活に密着し、読んですぐに役に立つという、徹底した実用主義」11を貫いており、別冊付録が人気があったことから、発行部数においては『婦人之友』を大きく上回っていた。それに対し『婦人之友』には、欧米の事例を紹介するなど、生活様式の近代化・合理化を推進しようという啓発的な態度が見て取れる。創刊者の羽仁もと子は、家事が合理化されることにより、主婦に教養を身につける時間を持たせ、主婦が新しい家庭、そしてその成員が営む生活を積極的かつ主体的にかたちづくっていくことを期待していた。34