ブックタイトル桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.45 2017

ページ
37/90

このページは 桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.45 2017 の電子ブックに掲載されている37ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

桑沢デザイン研究所 教員研修会 研究レポート No.45 2017

2.住宅の近代化における「収納」2-1.「生活」の問題化新しい家庭とその生活様式を考える上で、住宅の問題は無視しがたい。ここでは内田青藏の『日本の近代住宅』12と『あめりか屋商品住宅?「洋風住宅」開拓史』13を参考に、住宅が明治期以降どのようなかたちで近代化されようとし、その過程で「生活」の問題がどのように論じられるようになっていたのかを確認しておく。明治維新後の日本における洋風建築の導入は、日本が欧米諸国と肩を並べる近代国家となるための急務であった。しかしながら、明治の建築家たちにとって目を向けるべきは「国家」の建築であり、個人の住宅ではなかった。住宅の洋風化は、明治20年代以降になって、皇族、政府高官の官舎、そして民間の上流階級の私邸から、「和洋館並列型住宅」のかたちで進められたと言われている。中流階級以下の一般の人々の住宅が次第に建築家たちの視野に入り、中流階級の住宅に「和洋館並列型住宅」の影響があらわれ始めたのは明治30年代になってからのことである。具体的には、伝統的な日本家屋の各室に暖炉を設け和洋を住宅全体で折衷する方法や、日本家屋の一部に西洋室を設け部分的に洋風化をはかる折衷方法を示した、「和洋折衷住宅」の提案であった。後者の方法は、後に中流住宅の典型的形式に引き継がれていくことになる。「和洋折衷住宅」が提案されるなか、中流住宅の実際的なモデルとして欧米の住宅に範を求める人もあらわれた。ただ、欧米の住宅への注目は、日本の在来住宅の特徴を欠点とみる視線を浮き彫りにし、明治30年代には在来住宅批判が展開されることになる。その先駆けには、明治31年に『時事新報』で連載された土屋元作の「家屋改良談」14がある。そこではおもに、従来の住宅が家族が常にいる居間や台所を重視せず接客重視であること、各室の独立性が確保されていないこと、衣服の和洋の混在により住宅内での起居様式(「跪坐」と「踞坐」)が混乱していることがあげられている。一方、建築家による在来住宅批判も展開された。その批判内容を要約すると、開放性をもつ在来住宅のプライバシーの欠如であった。近代的な家庭生活の場においてプライバシーの確保が課題になっていたということである。例えば、在来住宅では通路部分が確立されていないため部屋の通り抜けに不都合があること、部屋の間仕切りが襖や障子という薄くて稼働性のあるもののため声が筒抜けになるということ、一つの部屋が食事や睡眠の場を兼ねるなど各部屋の用途が明確でなかったこと、であった。明治期のこういった在来住宅批判は、大正期に具体的な「住宅改良」「生活改善」という動向につながっていくことになる。在来住宅批判を引き継ぎながら、アメリカ産のバンガロー式組立住宅の輸入を試みることで中流階級の住宅の具体例を示そうとしたのが橋口信助である。橋口は、「あめりか屋」という住宅専門会社を1909(明治42)年に設立し、住宅の販売から設計施工までをおこなった。内田は橋口について日本で「『商品としての住宅』という考えを提示」したと同時に「それまで家長を中心として家族個々の生活を省みなかった住宅を変えようとした」と評している15。大正期に入り、先の節で述べた新中間層の台頭は、新しい中流住宅を求める動きをさらに活発にした。1915(大正4)には上野で「家庭博覧会」(主催:国民新聞社)が開催されている。「家庭」をテーマに新しい家庭の衣食住のあり方を具体的に提示しよ35