イメージ概念について
林 進
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 イメージは意識の一部に映像のようにあらわれ、意識の他の部分がそれを知覚的に眺めるというものではない。主観的にはそのように自覚されることがあるが、心理学の実験はその誤りを明らかにしている(3)。被験者に、(university)とか(Louisiana)とかの単語のイメージを形成させ、そのイメージの文字を逆方向に読むことを要求すると、順方向と同じ速さでは読むことができない。末尾の文字をいうためには、単語の最初の文字から想い浮かべて行かねばならない。この場合、単語のイメージは中枢的な視覚過程の進行ではあるが、写真を知覚する視覚過程とはまったく別のものなのである。映像はイメージを記号として事物化したもの、それをイメージ記号(imaginative sign)(4)と呼べば、イメージ記号の一種として人間の内面的なイメージと明確に区別する必要がある。

 映像は人間に新しい視覚をもたらし、映像コミュニケーションの発展は現代の大衆に新しいイメージを与えたといわれている。そのため、映像コミュニケーション過程の送り手と受け手のイメージと映像記号との関係を明らかにすることが今日的課題となっているが、映像がもたらした新しい視覚についてはケペシュ(5)をはじめ多くの論及があるし、映像コミュニケーションの社会的インパクトについて私も他の機会(6)に若干ふれたことがあるので、この小論では省略して、映像作製者のイメージと映像作製過程の関係を考えてみよう。 さきに映像はイメージ記号だといったが、じつはそれだけでは片づかない重要な問題が残されている。すなわら、写真、映画、テレビの映像を絵画と同じように、人間の内面的イメージの表現としてだけ考えてよいかという問題である。いうまでもなく、映像は機械的メカニズムを通して作製される。写真の撮影にあたって、対象の選定やカメラ.アングル、シャッター・チャンス、焦点、露出、照明の決定などは作製者の主観の媒介にほかならないが、シャッターを押した後はカメラの機械的メカニズムが媒介する。この機械的メカニズムの媒介によって映像は、中井正一が指摘(7)したように、対象と射影幾何学的な対応関係をもつ「図式空間」となり、絵画が画家の主観が確立する「体系空間」であるのとは異なった新しい性格をもつ。また、絵画が画家の統一的イメージの表現であるのにたいし、映像は作製者のイメージを表現するだけにとどまらないで、カメラの分析的な「物質的視覚」によって映像表現の偶然性といわれる作製者の意図しないもの、予期しないものの表現が入り込む。作製者のイメージによって体系化されていない現実が投影する。絵画が画家のイメージという閉された内面的世界の表現であるのにたいし、映像が作製者のイメージをこえる開かれた現実の投影であることによって、映像表現にドキュメンタリーの新しい可能性が大きく開かれてもいる。したがって、機械的メカニズムを媒介する映像は画像と異なり、イメージ記号としては把えきれない性格をもっている。

 数年前、月ロケットがわれわれに月の裏側の写真を送ってきた。この写真は人間の精密な計画にもとづいて製作された映像にはちがいないが、絵画のようなイメージ記号とはまったく異質なものであることを認めざるをえないだろう。機械的メカニズムを媒介しない人間系のコミュニケーションにおけるイメージ概念は、機械的メカニズムの媒介が高度化してきている現代の人間一機械系および機械糸のコミュニケーションにおいても有効な、より統一的な概念として新しく規定されなければならないと考える。その意味では、ボウルディングのイメージを情報の制御過程とし、情報はイメージをつくり出すための変化とするサイバネティックス的規定(8)は問題提起的ではあるが重要な着想である。彼の規定によればサーモスタットにもイメージが認められることになる。電子計算機の発達が人間の大脳活動の機械モデルを可能にしつつあるように、イメージの機械モデルによって、これまで神秘化されてきたイメージとイメージ表現を科学的に解明する途が開けるだろう。現在の大脳生理学はまだイメージの生理学的メカニズムを明らかにしていないし、電子計算機によるパターン認識(9)、イメージ認識もほとんど未開発であるが、将来の発展はイメージのサイバネティックス的モデルとイメージ・コミュニケーションの情報理論的研究を必ずや確立するだろう。そして、このような新しいイメージ概念はとりわけ機械的手段によるデザインと結びつくものであろうし、将来のデザインの方法を変革するものでもあろう。マックス・ベンゼの記号美学(9)は美学への情報理論の導入としてすでに注目すべき成果であるし、日本の美学やデザイン界の一部でも情報理論的検索がようやく始まったようである(10)。


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