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「Design論」後記
島田 厚  


 今年度のL3のDesign論では、私自身何らかの興味をもって読んだ書物をTextとして、大体月に1冊ずつ取上げて、学生諸君に要約してもらい、そこから面白かった論点をひき出して話し合うといった方式の授業を試みた。

 C.P.Snowの「2つの文化と科学革命」にはじまり、E.H.Carrの「歴史とは何か」、J.Z.Youngの"Doubt&Certainty in Science"(邦訳名「人間はどこまで機械か」)、P.F.Drucker "The Landmark of Tomorrow"(邦訳名「変貌する産業社会」)、W.W.Rostow「経済成長の諸段階」、V.Packard「浪費をつくり出す人々」、そして最後に、N.Wiener "The Human Use of Human Begins"(邦訳名「人間機械論)。以上がその全部のlistである。

 もちろん、その成果が十分だったとはとても云えない。私自身、これらの内容をすっかり理解できるわけではなし、それぞれの専門分野における細かい問題まで、学生諸君の理解を期待するのは的外れであろう。しかし、それにも拘らず、3年の諸君は予想以上によくついてきてくれた、というのが私の正直な感想である。それぞれかなりに硬いこれらの書物を曲りなりにも読み通すということは、相当に面倒な仕事だったに違いない。だが、今、私なりに解釈を施せば、上の数冊の書物には、分野や領域の差こそあれ、そこに一つの共通の態度−Langer女史ならば定めし「精神上の新しい基調」とでも称ぶだろう−がありありと看取されたということ。その「新しい基調」とは、一口に云って「制御への関心と自信」であり、この「新しい基調」が専門分野をはるかに超えて、未来のDesigner諸君の心を捕えたのだと思われるのである。

 人間が社会というものを、いや、世界というものを、つまりRealityそのものを操作可能の対象と見做しはじめたのは、20世紀の開幕と同時であった。上記の書物がロを揃えて云っているのはそのことである。そして、それらがくどいまでに説き去り説き来っていることは、現代が「計画の時代」だということである。オリンピックの競技場を横目で見ながら、3年の諸君の胸中に去来したのもまた類似の共感だったに相違ない。

 ところで、「計画の時代」としての20世紀が、巨大な足取りで歩み出しているという事実を、今は、誰も疑うものはないと思う。だが、その足取りに本当の意味で確かな根拠が与えられたのは、比較的最近のことに属するようである。近代科学における新しい思考の発展、中でも、WienerとVon Neumanの数学モデルを使用する制御と決定に関する劃期的理論なしに、「計画時代」の足取りは巨大とは云えても、決して確固たるという形容詞を身につけるわけにはいかなかったはずである。そして、今日、行動科学(Behavioral Science)と称せられる方法の体系は、この2人の思考に最も多くを負うている。Americaで日の出の勢いの行動科学が、日本の社会科学と人文科学の諸領域に潮のように侵入するのも、それほど遠いことではあるまい。少くとも私がそう見るのは、なによりこの新しい方法の体系は、金はかかるが同時に確実な「現金価値」を持つからである。Cynicalな批判を受けながらも、computerがboom現象を呈するのは、それなりの理由がある。Pavlovの国U.S.S.Rでは、Cyberneticsの初歩をすでに高校の教科課程に組み入れたと伝えられるではないか。私は、Wienerを学生諸君につきあって読み直すうちに、先に触れた「新しい基調」を決定的に集約し、象徴するのが、結局、彼のCyberneticsの思想であることを、改めて思い知らされた。そして、それがそれほど革新的であるだけに、彼の書物には、決して明るいとはいえない未来への洞察が投げこまれざるをえなかったのであろう、その理由も推察できる思いがした。人間と機械とを同じ平面で取扱うCybernetics は、人間の社会を蟻の社会に変えるための有効な手段ともなりうる。しかも、Cyberneticsをどう利用するかは、全く人間の自由なのだ。「計画の時代」は、同時にNihilismの時代であることを、この天才的な数学者は痛いほど知っていたのに違いない。


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