「Design論」後記
島田厚
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 一方、Modern Designも同じく20世紀の産物であることは、今さら指摘するまでもない。Realismの再現芸術とははっきり異なって、Designはあくまで工業社会における「計画の時代」にふさわしい造形活動だ。その意味で、Design活動もさきの「新しい基調」の埒外ではない。世界は私たちの造り出す世界よりも多くもなければ少くもない、という迫られた認識において、それらはいわば血縁の関係にある。<形>の決定者たるべき未来のDesigner諸君が、話のはしばしに自らの社会的責任を洩らすのも、単なる思いすごしや思い上りではないように私には思われる。

 ただ、ここで留意すべきは、Designという活動が、「新しい基調」と母胎を同じくしながら、一方造形という独自な活動であるための特殊な側面を持つという点であろう。行動科学的approachによるもろもろの計画は、必らず数学的処理、つまりfunctionalなSymbol操作を媒介とする。その意味で、文字どおり完全なabstractの過程を通す。しかし、Designという造形計画には、完全なabstractの過程はありえない。阿部公正先生も美学会の報告で触れておられたが、DoesburgやKandinskyの"abstract art"という名を廃止しようという提案には、非常に大きな意味が潜んでいる。Worringer以来、abstractは美術用語として大手をふって入りこんでしまったが、実は危険なanalogyであったと言ってよい。元来、visibleな事物、sense−datumがabstractでありえようはずはない。二点間の最短距離は直線であるという数字上の直線と、現実にpenあるいは画筆で書かれた直線との間には決定的な次元の断絶がある。このいわば当り前なことが、往々にして当り前でなくなるところに、いろいろな混乱のもとがある。Designerにとっては計画に使うscaleそのものが「もの」−sense-datumの諸相−なのだ。ここでは価値を括弧にも入れられず、またfunctionalに分散することもなしえない。つまり、価値と操作過程を一時的にもせよ分離することは許されない。Sartreではないが、Tintoretの黄色は、黄色であると同時に苦しみなのである。

 もちろん、Designのprocessにもabstractな操作は入るだろう。しかし、Designerが最終的に決定し、責任を持たなければならないのはあくまで、感覚の対象である形をもった「もの」以外にない。ちょうど、"computed art"と混乱すべきでないといいながら"mathematical approach"をしきりに試みた時のM.Billの念頭にあったものは、あるいはこのような問題意識ではなかったかと、わからぬなりに私は忖度する。

 20世紀も3分の2を過ぎて、「新しい基調」はすでに避けることのできない時代の要請となっている。そして、未来のDesigner諸君がその中で自分の生き甲斐を見出していくためには、この共通面の中に、その異質面を生かして行くほかはないのである。人によっては、弁証法的発展という重宝なことばで元気づけようとするかも知れない。もちろん、現実は、単なることばで云い切れるような単純なものではないにきまっている。しかし、それはDesignerだけの問題だろうか。私はそうは思わない。Designerの作った「もの」を通して、それはすべての人間にかかわる問題なのだ。逆に云えば、むしろ、そうであればこそ、Design properの問題としても、今日もっとも核心的なものと云えるに違いない。いつの日かまたDesign論を受持たされることがある前に、functional(函数的)な概念操作によらない、「もの」による計画の論理-それを論理と呼べるかどうかは別として-imageによる計画のすじ道を私なりに多少は探して置かなければと、今の私はそれを考えているところである。


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