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「構成」の方法について(2)
田中淳  

I.いまいちど私は問いかける

 さきの文(注1)において、私は“構成とは何か”を問いかけて考えはじめた。そして、デザイン教育における“構成”を、自ら律してゆく規範ともなるべきものとおもい、このことばの内包と外延とを、ぜひはっきり把握してゆきたい─と願った。こうした願いは、構成の方法を、私自身が“つくる人”であり、“つくること”を考え、追い求めながら、つくってゆこうとする姿勢をもちつづけることを通じてのみ、はっきり方向づけうるのだ、そう考えたからだった。

 私は、あのときよく意識化されていなかった次の1点だけに関しては、今はっきりとわかってきたように思う。

 というのは、私が問いかけた“構成”には2つの分野があり、これを1つにしてゆきたいことである。つまり、実際のデザイン活動をおしすすめてゆくとき、それぞれの専門分野ごとに、その材料・用具や技術・理論にねざす“構成の方法”が当然予想せられることがひとつ。

 さらになおひとつには、将来、デザイナーとしての職業に従事しようとする学生たちが、“デザインとは何か”についての理解と導入とを促がし、基礎的なデザイン活動を体験させる、いわば基礎的な“デザイン構成の方法”─デザイン・オリエンテーションの教育活動としての“構成の方法”が必ずや存立しうる、ということである。

 この2つの分野に気付いたあと、ふたたび教師の側に立って、学生が“構成の方法”を習得してゆくという事象を見つめるとき、構成することを教えるより、むしろ“構成することを習得してゆくようにしむける方法”を考えなければならないのではないか、そう今の私には思われる。

 このことから、「構成」の方法を考えてゆこうとする私の立場は、具体的な課題や資料やモチーフを通じて、造形的な創造過程を形づくってゆく1つの論理の所在を予想せねばならない。

 これは基礎・専門と、分岐してきたデザイン教育における統合の論理として、「構成」を考え、“構成の方法”を考えるということに外ならない。

 実際のことをここで考えよう。

 リビングデザイン科1年の教科目にある構成を、平面・立体・色彩・構造と分科・深化してゆくことより、むしろ“構成”という次元にこうした教科の中に盛られる内容を集約し、他の基礎デザインとよばれる“デザインのオリエンテーション”内容の教科目へと橋わたしすることが、この時点では必要なのだ─構成という教科目を担当する1人の教師として、自分の提起する課題設定の中に、果してどのようなあり方が、現にあるのだろうか。

 本当に、私の担当授業時間内に、このような統合の論理とよぶにふさわしい“構成”を学生の内部によびかけつつあるか、どうか。

 こう私は、私自身に問いかけるのだ。


II.入学希望者に見る学生の状況

 ひるがえって、桑沢デザイン研究所の学生を、この教育対象として、まず私は注目する。入学資格として高校卒業以上とうたってあり、願書と共に入学志願者は成紙調査書を学校にあてて提出してくる。入学選考のプロセスの中で、これらの書類に目を通すとき、私はまず第1の状況に気づく。

 大方の志願者が、高校3カ年で収得する全教科約100単位のうち4単位が、芸術科課程だというのがほとんどだ。(高校の1単位は、授業週時間1時間で、年間35時間の学習によって履習されるものである由)

 この芸術科は文学・美術・音楽・舞踊などという選択科目群の総称であり、さらに上級学校たる大学受験準備コースの如き観のある高校3年では、進学組のほとんどが、これらの芸術科々目とは無縁である。

 なおその一分科である美術をとりあげてみても、全国的に高名な幾つかの学校での特殊例をのぞき、たとえ選択で美術I・絵画を4単位学習した高校卒業見込者で、その評点5段階で5の評価が与えられているものでも、入試の石膏デッサン(鉛筆)には、人にもよるが、平均点以下がザラである。

 ある高校の美術教師から聞かされた話だが、油彩などを喜んでやる生徒でも、鉛筆デッサンなどは、なかなかジックリやるのは、今どき珍らしい─ということだった。これは東京近郊の小都市での話。地方などでは、もっとひどいところもあるなどと聞くにつけ、情緒の発達や、高度の芸術文化への傾倒や、自己表現という創造への没入などという形から遥かに遠い所で、芸術科教育─わけても美術科教育があるようだ。このことに加えて、東京の小石川高校大勝恵一郎氏は、青年期の美術創造の意欲減退を指摘し、こんにちの美術教育の欠陥と矛盾として、次の6点をあげている。(注2)これは、氏が教えてきた青年期にある高校生たちの意識にもとづく発言であり、私としても考えたい第2の状況である。

a. 美術創造にはある種の才能が必要だ(と信じる)が、自分には才能がない。
b. 自分は表現技術が下手だ。
c. 何か漠然と絵を描く気持が起らない。
d. アチープの美術の勉強で、すっかり嫌いになった。(引用者注)
e. 先生が変るたびに、評価の基準が変るので、わけがわからなくなった。
f. 入試の勉強が主であるから、主力がそっちに傾いて、心に余裕がない。

 そこで、氏は次のように指摘する。

 「従来の美術教育が、とかく人間の普遍的な性格の中に潜在する『芸術能力』を覚醒するよりは、たんに専門家の方法を水でうすめた技能訓練主義に傾いたこと、個性を無視した画一主義などが反省される」と。

 多かれ少なかれ、こうした現代の病いは、絵がすきだから、デザインを志したと答える桑沢入学志願者にも、伝繙し、中にはかなり重症患者ともいうべき者もいる。

 これら第1、第2の状況からみて、われわれが教育対象として与えられている学生たちを前にして、どのような対し方が最もまとを射たものなのか─を問わねばならぬ。

 もしこの問いかけを割愛しているのなら、はじめに述べた私のいわゆるデザイン教育における統合の論理というものは、単にことばだけのものとなってしまうだろう。

 ここで、私は“あらねばならぬもの”を問いかけるという仕方で、“現にあるもの”を見つめなおす─という行為に、またも戻ってくる。

(注1) 桑沢デザイン研究所レポート・第1号(1964)/構成の方法について(1)/筆者


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