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写真教育の一つの方向
平野 久  

 将来の文盲とは、文字と同様に、カメラの使用に無智な人をいうことになろう−モホリ・ナギ、1936年。

 写真術を写真術たらしめている要素を、純粋に技術的な8項目に分類し、写真だけにとどまらず、広く視覚の教育の方法を提示したモホリ・ナギがそのように予言した同じ年に、現在の“ライフ”誌が、翌'37年には“ルック”誌が創刊されたことは念頭に止めておいてよいことである。

 すでに1938年、ウォーカー・エヴァンズの写真集“アメリカの写真”に欧文をよせたリンカーン・カースタインは、その中でこう嘆じた。「写真を眺めることの方が、文章の一節を読むより、はるかに楽である。アメリカの読書大衆は、眺めるだけの人間どころか、急速に、ちらりと視線を走らすだけの人間と化しつつある」

 モホリ・ナギにとって写真は、それ自体が教育の手段であり、将来なお探求しつづけるべき課題であったが、グラフジャーナリズムにあっては、急速に既知のものとなっていった。

 「感動のないフォトジャーナリズムと、思考力を欠いた写真の大量生産は、作者不在の商品になってしまう。大気は写真の“悪臭”で汚染されている……私はペシミストではないが、現在のグラフ雑誌を見るにつけても、写真の進歩ということについて口にするのは躇いを覚える……写真は誰にでも―子供にすらわかると考えられているからである」グゲンハイム記念財団の奨学金を受けた2年間に互るアメリカ各地での撮影を終り、財団への謝辞を誌しながらも、なおかつ、ロバート・フランクはそう書かざるをえなかった。1958年にその成果“アメリカ人”を残して、彼は映画製作への道を選んだ。

 現在では、ありとあらゆる真味を付与されて、魔術的な言葉とさえいえる、コミュニケーションの使徒としての写真の氾濫に、疑念や不信をいだく人達の存在を無視できる、とはいいきれない。コマーシャル・ベースに乗らない、非営利的な季刊誌や、個展にだけしか発表の機会を求めない作家が多数にある。

 一方、年代が前後するが、1954年を境にアメリカでは、写真のコースを設置する大学程度の学校が、急激に増加の傾向をみせはじめた。本年中にその数は、全米で600校に達するだろうと推定されている。その卒業生は80から90パーセントまでが、何らかの形で写真に関係した職につくことが報告されている。この一事だけでも、アメリカにおけるマーケットの広大さが察しられようというものだが、注目すべきことは、写真のコースの設置されている学部の多岐にわたることである。 美術(デザインをふくむ)、ジャーナリズム(アーサー・ロスタインの“フォトジャーナリズム”によると、1965年に117校を数える)は当然のこととしても、英語英文、物理、化学、地球物理、哲学、社会、建築の諸学部におよぶ不確定さを示している。

 それぞれの分野で、それぞれのあり方で、写真術が有力な方法であっても、それが召使いとしての方法としての技術の教授におわるならば、おたがいにとって幸福な結婚を意味するだろうか。写真独自の立ち場にたって、その教育を考えるべき時がきている。


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