視覚構造の基礎概念について
下村 千早
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 建築物は、それを作るための材料と、その建築物の設計図という二つの要素の構成の結果であると考えうる。その建築物のために指定されたる材料であっても、ただ単に材料のみを集めてみても建築物とはならない。集められた材料が、設計図に従って必要なる位置に配置、組立られてはじめて建築物となる。すなわち、設計図は材料相互の関係、あるいは材料の建築物全体に対する関係を指示するものである。数学においても、建築物に対して設計図が果す機能と同じ機能を果すところの対象についての概念を「構造」と定義する。数学の領域においても、ただ単に数的要素をあつめて集合をつくったとしても、数論的にはあまり意味を有しない。集合とは、「相異なる事物a、b、c、………を何らかの理由から一つの共通な見地からとらえて、頭の中で総括するということがよく起ってくる。このときこれらの事物は「集合」Sを作るという。事物a、b、c、………を集合Sの「要素」と呼び、これらはSに「含まれ」、逆にSはこれら要素から「構成される」という。このような集合(または全体、多様体総体)はわれわれの思考の対象としてやはり一つの事物である。」Dedekind、建築におけると同様、数学においても集合の要素の間に演算=相互関係=構造が定義、規定されるとき、その集合は数学的に意味ある姿を現わしてくる。したがって、集合と構造との関係は次のように示すことができる。

    全体=集合+構造

 もちろん、この式はあくまでも比喩的なものである。

 数学的対象を構成するためには、ある材料=要素を使用して、さらにその集合に要素の相互関係を規定する構造を与えなくてはならない。数学的対象を構成する材料=要素は、点、数、虚数、無限、………等であり、さらにそれらから作られた集合、あるいは集合の集合等、要素は多種多様である。数学的対象、数学理論という建築物が造られる場合、それは設計図に相当する数学的構造を規定するところの「公理」が与えられて完成する。建築術におけると同様、同じ集合を扱ったとしても、異った公理が与えられることによって異った数学的対象、数学理論ができる。まったく性質を異にする別々の集合であっても同じ公理が与えられれば、数学理論は同じものになり、要素は同じ演算のもとに思惟される。集合と集合との間に対応関係をつけてみれば、一方の構造と他方の構造との相異を知ることができる。その対応関係を指示する概念が「写像」である。「一つの集合sの「写像」とは、一つの法則のことであって、この法則に従ってsの一つ一つの確定した要素sに確定した事物が「属し」、これをsの「像」といい、(s)で表す。」Dedekind、相方がまったく同じ構造をもつとき、それらは互に「同型」であるといわれる。

 数学的対象を、構造によって理解しようとするそのような数学観を生む発端となったのが、カントール、デデキントに始まる集合論であった。19世紀の数学の一派である「構成主義」の作業の基礎になるものが、いわゆる集合をめぐる諸概念であったことは注目にあたいする。そのような過程をとおして、「数学は、思惟可能なものをその対象とする。そして思惟可能なものとは、既知の集合から集合論的操作によって構成される事象をいう。」という数学観が新しく誕生する。数学者の関心は、思惟可能な対象、すなわちそれを可能にする集合論的操作、すなわち、その対象の集合に対する構造へとしだいに移っていった。現代の数学は、対象を認識し、考察、理解する場合まずその構造を抽出分析する。そしてさらに、それを簡単な、基本的ないくつかの構造へと分析し、それぞれの構造を細密に追究する。そしてそののちに、分析によって得られた情報、成果を総合して最初に与えられた対象を知ろうとする。したがって現代において、数学的存在とは構造を有する体系であるということができる。

図-1 図-2
図-1 図-2
与構造は要素の大きさの変化を規定する。要素は大きさの相異、ネガ・ポジの相異との複合的要困をもつ。複合的要因を含む要素=点の構造的規定により、全体の内に四つの異った群が形成される。

 建築物の構造にもラーメン構造、シェル構造、張力構造、空気構造等多くの種類があるように、数学上の構造にも無数にいろいろある。ブールバキは、その基本型としての数学的構造をつぎの三種類に大別している。

 (1) 代数的構造 (2) 順序の構造 (3) 位相の構造

 ブールバキの人々の主張と研究は、数学的構造を公理によって定め、その公理系から純粋に論理的に種々の命題を導き出すという、ドイツの数学者ヒルベルト(D.Hilbert 1862-1943)の公理主義の精神に徹した方法をとっている。ブールバキの人々は、数学の非常に多くの部門をその内に含む一般的理論をつくることによって、従って代数学とか幾何学とか解析学という分類を越えて、それらが互いに交錯する中で統一ある一つの「数学」を建設しようとして企てを行なっている。単純なものから複雑なものへ、一般的なものから特殊なものへと秩序ある構造の段階をもった一つの「数学」が成立しつつある。「テーブルと椅子とコップを、点、線、平面の代りに取っても、やはり幾何学ができるはずだ。」というヒルベルトの言葉は、そのことをよく示している。またヒルベルトにはじまった公理主義が示す極めて抽象的理論は、それ自体全く具体性をもっていない。しかしその抽象性こそが、数学により広範囲な適用可能性を与え具体的な問題解決の基本的方法を含ませることになる。

視覚構造の意味

 名著「Language of vision」「The new landscape in art and science」の著者であるG.Kepesは、その最近の編著「Vision+Value series」の第二巻の[Structure in art and in science」の序文において次のように述べている。

 20世紀の科学は、人間の文化のあらゆる分野において拡大でかつ新しい領域を開き、作ってきた。しかし、多くの他の文化的分野と同様に、視覚の分野においても科学によって開かれる新しい領域を十分に利用することによって得られる深く、豊かな新しい「感覚」、それを受け入れ、生活を変化ある美しいものにすることに、われわれは素直でなかった。過去1世紀半の間、過去の経験の破壊がもたらされた文化的、科学的分野で働いた人々がもった感覚は、われわれ20世紀の世界に真に固有なものである。新しく開かれたその領域から、20世紀に生活するわれわれが使用する価値の中心的尺度を求めねばならない。われわれの感覚は、新しい諸領域相互の間に橋をかけることを必要とし、橋がかかることによってわれわれは新しい領域が有している意味を把握することができる。われわれに与えられた20世紀固有の新しく、素晴しい視覚、その使用によって、それらに橋がかけられる。視覚は人間の洞察力の基本的様相である。われわれは視覚によって、科学と芸術の連続を、理性と感情との、人間と自然との連続を試みる。新しく生れつつある世界の完壁なる受入れのみが、われわれの生活を現実的で純真な享受すべきものにする。完壁なる享受のためには二つの具体的問題が含まれている。

 一つは、人間の努力しているすべての分野で、今日可能なかぎり最も先端的な知識の探究者にならねばならないこと。

 二つに、そのようにして得られたすべての知識を、各分野相互に結びつけ伝達し合わねばならない。その結果われわれは、相互に連絡しあった一つの全体として、世界を見るための力=構造の感覚を得るにちがいない。

 歴史上の各々の時代は、世界、世界像を理解、把握するための中心的 model を必要とし、そして捜し求める。何故なら、もしなんらかの思惟の対象が設定されなければ思惟は不可能であり、従って多くの思惟相互の共通の場は生れない。無機的構造から植物、動物の有機的構造に、動物の動きからその社会的行動様式に、そして人間関係の様式に、社会生活の様式に。生体の遺伝機構一複雑な分子DNAの構造の中に生体の生長と発展のプログラムが組みこまれている一の基礎になる分子構造の理解によって、構造のもつ劇的な力を知る。構造が中心にある。構造は、われわれの時代の中心的 model であり、われわれの視覚にとって独自なる実体である。今日、最も力強く、想像力に豊んだ視覚は、「構造」的な方向にある。

与構造は要素=点の形体の変化を規定する。左から右に移動するに従って、円形から星形に変化してゆく。左右の円はネガ・ポジの関係にあり、また左と右で図形と地の関係は逆転する。
図-3
図-3
図-4
図-4
与構造は要素=点の大きさの変化を規定する。点の大小の連続的相異により8の字形の群が形成される。

 Kepesがその重要さを強調する「視覚の構造」の意味とは何で、どのようにして理解されるであろうか。前述した数学上の構造概念をたよりに、視覚的対象を分析し、それらを再構成するという形式をとることによって視覚構造とは何かを知ることにしよう。論を厳密で、より具体的にするためにデザイン領域あるいは造形領域の諸構成要因のうちで視覚現象の領域のみについて叙述を進めていこうと思う。しかしそれらは、造形の領域、視覚の領域であるとないとを問わず、可能な領域からの抽象であること、またそれらが一般的、本質的であることをも意図している。

 われわれが集合論の立場にたつとき、知覚されうる視覚対象は、どのような諸部分に分解されうるのだろうか。視覚対象は、視覚的ないくつかの要素によって構成された集合=視覚現象であるといえる。われわれが非常によく訓練された視知覚およびそれに連関する思惟を所有するなら、与えられた視覚現象はいつの場合でも常に二つ以上の要素を含む、あるいは要素に分解しうる現象として知覚される。三次元空間においては、要素を取り囲む、含まれている空間を、二次元空間では背景=地といわれるものをも要素として含まれていることになる。一般的に考察すれば、ある視覚現象は点、線、面、ボリューム、明暗、色、および近代造形活動の諸領域によって開拓された諸要素、光、スペース、運動等の諸要素の集合として分解される。一見錯雑な視覚現象およびその部分も、それは基本的要素の複合的なる現象として理解することによって、単純要素に分類される。以上のことから、どのような視覚現象も、いくつかの単純要素に分解することが可能である。ここで分解された一要素について考察してみるなら次のことがいえるであろう。単独要素は、それが含まれているところの或る領域に関連して種々に分化されうる。そして単独要素は、他の要素との異なる関係にたつことによって、その直接的状態を超越して自らを明らかにする。従って単独要素は、本性上抽象的である。単独要素が本来あるところのもの、それの本質は、なにか特殊な事態と連関してのみ理解できる。各々の単独要素は、それぞれの仕方でそれ自身であり、個別的なものである。この特殊な個別性は、その要素の個別的本質である。しかしそのような個別的存在性を除去して要素を考察するなら、視覚的諸要素の単なる集合すなわち、要素が雑多に集って現象のみである場合、ホワイトヘッドもいっているように、われわれの知覚の対象とはなり得ない。要素の集合が知覚の対象となり、視覚現象として意味をもつためには、常に要素の間に、要素と現象の間になんらかの連関、なにか特殊な事意との連関、全体におけるそれの地位を持たねばならない。他の要素あるいは事態に対して要素は、関係的本質を有している存在であるという理解の基盤に立たねばならない。要素の集合と、それらが置かれている状態=図形配置 configuration が与えられるなり、把握されるなりしたときにはじめて、対象はわれわれに視覚現象として姿を現わす。数学的存在と同様、視覚現象においても集合にそれらの間の図形配置=構造が定義されたときに、視覚現象は全体として意味ある視覚的存在となる。

    全体=集合+構造

 視覚現象=全体は、集合という因子と、構造とよばれる因子によって構成されている。視覚現象においても、諸要素、点、線、色、光、ボリューム等の相互の間にあるいは全体に対する関係の間に与えられる図形配置あるいはそれらの操作方法=相互関係を構造と呼ぶことができる。

図-5 図-6
図-5   図-6
与構造は要素=色、明暗の変化を規定する。グラデションという概念は、けっして色の連続的変化のみを指示するものではない。


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