世界の偉大な写真家たち
矢野目 鋼
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 1925年写真家志望のアメリカ娘Berenice Abbottがパリでアジェを知ったとき彼はすでに老人であり、やがて世話する身内もをく死亡する。アポット嬢はマン・レイによってアジェの写真をみせられるとたちまち熱烈な傾倒者となり孤独な老人に近づいた。当時アジェの芸術を知り尊重するものは少数の若い外国人だけだった。もと水夫、ついで田舎の端役専門の役者、42才にして写真師となったアジェはDocuments Pour Artistesと看板をかかげて、さしえ画家、織物意匠家、建築家、舞台美術家などをお得意として暮しをたてていた。彼の残した膨大な数の写真原板は俳優時代からの友人、ストラスブール市立劇場支配人A・カルメットの管理するところとなったが、一部分はレ・モニュマン・イストリックに選択され、そのたはアポットが懇願して譲り受けた。かくてアジェは死後写真史に輝く大きな星となった。アポッ・トの編んだ大冊The World of Atgetには176点があり、同じくらいの大冊A・D・トロテンバークがマルセル・プルーストの文章を対頁につけて編んだA Vision of Parisにはアポットの所蔵からでた約200点があるが、写真展でみた、55点のうち前の2冊が重複して所載するものは僅かであって、彼の仕事の大きさはまだ量りきれないと思った。

 伝説的なウェストンは損をしたようだ。意図されたのではないだろうがウェストンの部のセレクションは日本におけるウェストン像をいささか凋ませたのではないか。アジェはマン・レイなどのシュール・レアリストによって発見されたといわれるが、彼には超現実的を要素はみとめられない。彼はひたすらパリの生活を愛し、写真はその視覚生活の中のある種の愛しかたを無理なく写真的に表現したまでであって、その題材のとりあげ方からみればプルーストの世界との親近性は自然におもわれる。
 これに反して、ウェストンはもの自体の本質にせまり事象の意味を開示しようとするレアリストといわれ、そう解釈してよい写真も多いが、それらには一株の奇妙を超写実的または超自然的を趣きがあり、とくに第二次大戦中の仕事には(例えば、1943年頃の写真にガスマスクをつけた美しい裸婦が一転の大きな羊歯様の植物とともにソファの上に臥しているのがある。)そのような点がことさらにあらわにされたので、とりまきのウェストンファンたちは周章てた。

 それに対して彼は自分はちっとも転倒してはいない。精神病理学的を解釈は止めよ、自分がテーマを更新すると人はきまってこうだと抗弁している。彼の日録(Day books of E.W.)にも主観性の強すぎる叙述がみられる。このようを種類の強引さはポイント・ロボス(狼が岬・加州)や砂漠のように人為施すかたなき大自然を対象とするとき丁度うまく中和されて、かの数々の美しい写真が生れえたのだろうが、対象が柔かく唆昧であって彼の強引な思弁を中和しないときには、彼が恣いままに注ぎこもうとした写真的にはあらわれえないもの、意味をなさないものが表現を混乱させることになる、といっても結局はそのように奇妙さをみとめるのだからそのような意味が伝達されたともいえるが、それはあらわれているところから一応離れてどうにでも導かれる恣意的な憶測の領域にまかされるのである。

 線的に記述の継続する文章や音楽、日々の人間の暮しのなりゆきとはちがって、写真は同一画中に連続の順序を指示することなく画像要素を同時に平面的に併列してみせる。このことは都合がよくてもわるくても、別種の視覚意味論的限定と方法を想定させる。文芸作品でなくても、よい文章、すぐれた表現ということはあり、簡潔という法則などのあるように、写真も芸術的意図に関係なく、よくあらわすことが要請されるだろう。写真にも写真独特のレトリックの可能性があり、そこに自由がありそれは無限であろうが、実際にはまま馬鹿正直にうつるものがうつっているにすぎないことが多く、これな単純に写真のレアリズムと考えたり、また説明不足と評したりもする。視覚的に表現され伝達されうる意味のあり方という観点から私はウェストンにはまだ疑問な感じ、それに技術的な画像の質という観点を加えて、ウイン・バロックとブルース・デヴィドスンには興味をそそられ感心した。また、イリノイ工科大学デザイン学部の写真科教師ハリ・カラハンそのたによっては、なぜなにをとるかの問題を含めて写真のとり方を示唆され啓発された。このたびの写真展はもし各作家あたりの点数を減じて写真家をあと6名も増せば、もっと精彩のあるものとなっただろうが、G・E・H・コレクションは他処にも巡回させているらしいので止むをえなかったのかもしれない。

矢野目 鋼


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