研修会報告<倉内史郎氏の講演から>
本間英樹/平野 久/近藤 英
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<学歴社会の中の各種学校>

 次に、学校制度を成立させている正規の学校、つまり学歴になる学校との関係に視点を移してみると、人びとが見る各種学校のイメージ(=先入観)が浮びあがってくる。だが、それがすべて正しいものだとすることはできない。

 各種学校の生徒の実態を見ると、i)高卆者が主体である。これは、大学か各種学校かという選択の対象、2つの選択枝の1つとして捉えたとき、大学に行けない(=試験に受からない)から、止むなく各種学校へ行くのだ。端的にいえば、各種学校は程度が低いのだという見方につながりがちである。ii)修業年限は1、2年が大多数を占めており、2年制が比較的にまとまった教育を行っている典型的な存在であるという事実から、各種学校は短期大学との比較が行われやすい。
その結果、短大と同等に扱えという各種学校側の要求とそれを人事院も同様な勧告をして支援する場合もあるが、一方、修業年限は短大以上であるのに(看護婦の修業年限は3年)、短大卆以下に扱われることを、自尊心を傷つけられながらも、甘受せざるを得ないという認識の差異が生じがちである。iii)高卆者の大学進学者と各種学校への進学者のそれぞれの男女の比率の問題がある。4年制大学に限っていえば、その男女比は80:20であるが、120万人を擁する各種学校での男女比は35:65である。そこで、男は主として大学へ、女は主として各種学校へ進学するものである、という結論が導き出されがちである。しかし、これが即ち男文化をつき崩そうとするウーマンリブの主張に論拠を与える意味あいだけを含んでいるとは言い切れまい。大学は正系で各種学校は傍系であり、一段低いとする見方がある。なるほど、施設、教員、内容が規準に満たないために、正規の学校として認められなかったものが、やがて正規の学校になおっていった例は多い。この推移のみに眼を奪われ、そうした考え方が拡大されて、専修学校制度を確立しようとする動向には疑問を抱かざるを得ない。

<専修学校>

 専修学校(制度)とは、学校教育法を改定して各種学校の法的規定を行い、その地位の確立を狙うもので、10数年来国会で流産の歴史を重ねてきたものをいう。 それは、現在の各種学校を在学者の学歴によって、高等専修学校(中学の基礎の上に立つもの)・専門学校(高卆)・専修学校(前記以外)・各種学校(前記に適合しないもの)と呼称を改め、正規の学校制度に対応させようとするものである。現在ほとんどない公費助成の期待の上にたつ動きであるとは理解できても、それぞれの各種学校の教員達がこの問題を検討しているとはいえず、経営者側の問題だと見受けられる。各種学校の社会的認知、評価を受けることが、各種学校卆という新しい学歴を作り出し、一層学歴の差別を甚しくしながら、なお、大学の下位にしか位置されないのではなかろうか。

<各種学校の存在理由>

 これまで挙げてきた諸々の傾向、先入観は、各種学校の本来的な性格と特質を捨て去らせる力として働く。何等かの方法で公費の助成は望ましいが、各種学校は学校制度の与党とならずに野党として止まることに特色を発揮し得るのではなかろうか。さきに各種学校は私的な性格を持つといったが、それは個々の要求に基くものであり、画一的、全体主義的なものとは相反するはずだからである。

 人びとの学びたいものは無限に広く様々である。正規の学校体系だけですべての要求に応えることは期待できないだろう。各種学校120万人の在学者数がそれを証明している。社会発展の状況に応じた教育の機会の提供という柔軟性がそこにはある。制度として教育が先行するのではなく、学びたいから、身につけたいから学び、自らを教育する教育本来の姿がここにはある。国が要求した規準・規則があるから教えるのではなく、教えたいから教え、教える者の判断に従って教える場でもある。学歴に左右されず、学びたい時に学ぶ機会が与えられる。特に、授業時間が夜間に多く用意されていることも重要である。正規の教育体系が青年期後期で終るのが普通であるのに対し、職業人・主婦など社会人に学ぶ機会が広く提供されていることも見逃すことはできない。

 このようにして、各種学校が提供する教育の機会は、正規の教育体系がどうあろうとも、常に存在しなければならないものであり、果すべき使命もそこにある。
(1975年2月1日の講演のメモから 文責・平野 久)


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