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宮原夢画

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Interview (8)

宮原夢画 Muga Miyahara

自分にしか撮れない写真を追い求めて デッサンというのは、ただ鉛筆で紙の上に描くのではなくて、要は光を捉える作業なんだと授業でいわれたことはよく憶えています。写真に共通しているところがあると、印象に残りました

今回ご登場いただくのは写真家の宮原夢画さん。ファッション雑誌から企業広告、ウェブ媒体や、近年ではムービーの分野でも活動する宮原さんが桑沢に入学したのは写真学校卒業後の22 のとき。そのときすでに写真家になることは決めていたという宮原さんはなぜ桑沢の門を叩き、なにを学び、写真への道を歩みはじめたのか。人間の身体の形態と量感に独創的にアプローチした直近の個展〈KATAMARI 塊〉をはじめ、異彩を放つ作風の原点ともいえる時代をふりかえりながら、写真のこれまでとこれからを語り合います。聞けば、本連載で撮影をお願いしている塩田正幸さんとは同じ学科の同級生。やはりカメラマンとして活動をはじめたという宮原氏のご子息、絵燈さんもまじえた写真談義がMugaMiyahara Fotografia の一角で幕を開けます。

Contents

写真家のタマゴ、桑沢で出会う

──本連載を撮影していただいている塩田正幸さんと宮原さんは桑沢デザイン研究所で 同級生だったんですよね。

宮原 結構つるんでいたよね。

塩田 いやいや、つるんでいたどころじゃないでしょ。

──そんなに一緒にいたんですか。

宮原 桑沢にいた時期はほとんど一緒にいたもんね。

──年齢は夢画さんの方がふたつ上ですね。

塩田 俺が1973 年生まれだから──

宮原 最初に僕、東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)を出ているんですよ。それから桑沢に入っているから。シオはダイレクトで入っているでしょ?

塩田 いや、1浪。

宮原 だからちょうど合うんだ。僕は2 年間写真専門学校出てから入っているんですね。その前に高校中退して大検とってから入ったので、高校卒業から桑沢入るまでに3年かかっているからシオが1浪したのとぴったり合うんだ。

──写真の専門学校を卒業して、桑沢で学び直したのにはなにか理由があったんですか。

宮原 写真を学ぶ上でも、デザインであったり、立体学、平面構成であったり、やっぱりそういうことは絶対的に必要だなと思ったんです。それと桑沢はうちの父親の出身校でもあるんです。

──アートディレクターの宮原鉄生さんですね。

宮原 そういうこともあって、小さい頃から家の本棚にはアーヴィング・ペンヘルムート・ニュートンの写真集があったんです。

塩田 俺がはじめてアーヴィング・ペンの写真を見たのは夢画の家だったと思う。桑沢の図書室もよく行っていたけどね。夢画の家で見せてもらったと思う。

宮原 画集とか写真集とかごろごろしていて、そういうのを小学生の頃から見たりしていました。もともと僕は小学生の頃から絵を描いていたので、絵にも興味あったんですが、高校をドロップアウトしてその後なにかやろうかなと思ったとき、ちょっと写真とかやってみようかなと思ってやりはじめたんですよね。

──家にカメラはあったんですか?

宮原 自分では持っていなかったですが、父親の所有するニコマート、ニコンの古いやつが家にあったので、中学生の頃に遊びで撮ったりしていたことはあります。ただ、それ以降、ほかの対象に興味が移っちゃって撮らなくなりました。それが写真の専門学校に入るというタイミングで、父親がニコンのF4というフィルムカメラをプレゼントしてくれて、それを大事に持ち歩いていつも撮っていました。

──写真専門学校では基礎的なことを学ばれたんですか。

宮原 はじめてモノクロのフィルム現像やプリントをやったり、スタジオライティングみたいなことをやったり、みんなで写真展を見に行ったこともあります。そのような環境からいろいろと影響を受けて、写真ってすごいと思うようになりました。写真について僕は当初、報道に興味があって、ドキュメンタリースナップフォトが好きだったんです。ちょうど新宿の三越で開催していたロバート・キャパの展覧会を学校のクラスで見に行く機会があったんですね。ピューリッツアー賞を獲った作品も並んでいるような展示でしたが、写真を前にしたとき、感動のあまり泣いてしまったんです。そのようなことも写真にのめり込むきっかけになりました。クラスには毎回、写真集を学校にもってくる友だちもいて、その人に見せてもらったロバート・メイプルソープの写真集も衝撃的でした。同じロバートでもキャパとメイプルソープではテイストがぜんぜん違う。メイプルソープは身体の美学やゲイカルチャーをずっと撮り続けて、ゲイの市民権を得て政治を動かすほどになった。写真にはこれほどの力があるんだと思い知らされました。彼の美意識に惹かれて、スナップと別のベクトルで、作り込む写真というのもあることを知り、細江英公さんや植田正治さん、そういう方々にもすごく影響を受けました。そんなタイミングで桑沢に入学してシオに出会ったんです。

塩田 俺にとって夢画はメイプルソープのイメージだった。

──塩田さんは桑沢で宮原さんに出会ったとき、写真に対する興味や知識はありましたか。

塩田 ないない(笑)。俺はほら、音楽好きで、レコードジャケットが好きで写真をやろうみたいな動機だったから。

桑沢時代の宮原氏の作品「Self portrait muga 1992」

教えを受け、みずから学ぶ

──夢画さんはアートディレクターである親御さんから写真とはこういうものだと教わったことはありますか。

宮原 いや、父からはこういうものだと学んだというよりは、撮ったものを見せて、投げつけられたりはしました。

──親子というよりは子弟ですね。

宮原 20代前半です。厳しかったですね。こんなの撮るんだったらお前やめろ、といわれました。父が一緒に仕事するような一流の写真家の人たちと比較するなよ、と当時は思いましたけど、実際比較されてしまうんですよね。見るほうにとっては関係ないですから。

──写真という見地ではベテランも若手もないということかもしれないですね。

宮原 それでいて反骨精神ではないですが、なにクソと思えたし、いい写真を撮れるようになりたい、この親父をいつか黙らせてやろうと、グッと集中していったっていうのはあるかもしれないですね。

──桑沢に入学した時点で写真家としてやっていきたいと考えていましたか。

宮原 決めていました。桑沢ではデザインとか立体、デッサンなども学びましたが、あくまでも写真をやっていくうえでの光の捉え方だったり、色彩の捉え方だったり、そういうところで考えていたということはあります。すごく勉強にはなりました。科目名までは思い出せませんが、デッサンというのは、ただ鉛筆で紙の上に描くのではなくて、要は光を捉える作業なんだと授業でいわれたことはよく憶えています。写真に共通しているところがあると、印象に残りました。でも真面目な学生だったかといわれるとちょっとあやしいですね(笑)。

塩田 俺らはビジュアルデザイン学科だったんだけど、パルコの地下のロゴスという洋書屋さんにいたり、俺なんかは道端に坐ってずっと人を見ていたりした。夜間だったから昼間はフラフラしていられたのよ。

──おふたりはすぐに親しくなったんですか。

塩田 夢画くらいしかかっこいいヤツがいなかったんだよ。

宮原 僕もシオをかっこいいと思った。

塩田 センスを感じるというかね。夜間だから年齢は結構上の人も多かったし、働いていてダブルスクールみたいなクラスメイトも多かった。

宮原 すぐに話すようになって、気づいたら仲良くなっていました。僕は結構、年上のクラスメイトともうまくやっていくタイプ。ちょっとカジュアルなグループというか。逆にシオはエッジが立っている個性派タイプ──なんだけど、親しくしていました。

塩田 現役で入った連中は昼間部の学生と仲がよかったりしたのよ。昼間のほうがどちらかといえばやんちゃなのね。それこそ(川瀬)陽太くんとか、そういう連中と遊んでいた。

同級生の塩田氏を撮影した「portrait of m.shio」

表現と探究心

──当時桑沢では写真の授業はあったんですか。

宮原 選択でありましたよ。ガラス乾板をやっている先生がいたよね。

塩田 いたね。ネガを焼いてつくったスチームパンク的な作品をみせてもらったことがある。その人はいつもいたわけではなかったと思うけど。

宮原 特別講師だったのかもね。名前は忘れちゃったけど、昔あった「deja-vu」という写真雑誌には載っていましたよ。

塩田 写真でいえば、テクスチャーとか、基本的な授業があって、学ぶのもありつつ、勝手にやっていた部分も大きい。

宮原 なんとなく見て楽しんで自分たちで好き勝手やるみたいな感じで、だからシオのスタイルも僕のスタイルも作品を作り上げる工程も全然違うし、シオはシオなりのオリジナリティ、僕は僕なりのオリジナリティでつくっていた気がするね。はじめシオはまだ写真のことを知らない時期に僕と出会って、写真に興味が出てきたよね。それでちょっと家に遊びに来て暗室を体験して、そこからどんどん自分なりのものを作り上げていったんじゃないのかな。

──夢画さんは桑沢に入学された時点でテクニカルのことはひと通り修めていたんですか。

宮原 シオと出会ったときはヒヨコに毛が生えたくらいです。桑沢を卒業してその後、僕は商業カメラマンを目指していきますけど、暗室のテクニックとかそういうものはスタジオマンやアシスタントをやったり、その後フリーランスになったりするなかで身につけていきました。

 働くようになると機材も変わってくるんですね。はじめて暗室に入ったとき、引き伸ばし機につけるレンズはニッコールだったのが、少しお金が貯まってきたらローデンシュトックのレンズになり、シュナイダーを使うようになり、画質とか描写能力の高いジャーマニーレンズに惹かれて、組み合わせによる出方の違いをいっぱいテストしました。撮るのも4×5だったりとか8×10だったりとか。だから結構オタクですね。オタクで、いろんなものを試して、そのなかから自分が今回、こういうものをつくりたい、ではなにをチョイスするか、というそういう感じでした。

──探究心旺盛ですね。

宮原 わからないことがあるのは嫌なんですよ。いちど試してみないと、どれがいいのか、わからないじゃないですか。体験してみないとわからないし、シャッター切ってみてそのプリントができあがってそれを見てその描写能力を比較してみてはじめて、じゃあこっちを選ぼうとか、そういうことをこの20年くらいつづけてきたような気がします。

──作風についてはいかがですか。表現の根幹となる部分について教えてください。

宮原 僕の根源にあるのはそのロバート・メイプルソープです。彼が撮るヌードや花に美を感じ、そのメイプルソープはなにに影響を受けているんだろうとなったときにギリシャの彫刻や陶器に描かれた絵であるとか、そういうところをポージングの参考にしていると写真集を読んでいくとわかってくるわけです。メイプルソープの美学がアーヴィング・ペンにつながっていったこともありました。古典的な作家では、エドワード・スタイケンエドワード・ウェストンあたりを掘り下げて調べていくようになり、その後の大きな出会いとしてはアルフレッド・スティーグリッツがあります。27、28歳のとき、スティーグリッツの作品を見るために、収蔵先のニューヨークの美術館に足を運んだこともあります。ジョージア・オキーフの指と手を撮った写真のプラチナプリントを生で見たかったんです。そこからフィルムで撮っているけれども、プリントの工程で普通の印画紙、銀塩ではないオルタナティブプロセス、プラチナプリントとかサイアノタイプとか、バンダイクプリントとかアルブミンプリントとか、そちらへ興味の対象が広がり、ひと通り学びました。いろいろ試して、細江英公さんのプラチナプリントのワークショップに参加したこともあります。だからやっぱりオタクなんですよね。

──知らないと気が済まないんですね(笑)。

宮原 そうかもしれません(笑)。たとえばフランスでは1870〜80 年にベル・エポックの写真、鶏卵紙に人工着色した写真などが流行っているんですね。日本でいう幕末の「横浜写真」ですよね。鶏卵紙に焼いたモノクロ写真に、仕事がなくなった浮世絵師たちが人工着色したものです。海外から来た人たちのお土産品として、いろんな観光名所を撮影し、人工着色した本もあったらしいです。当時活躍した日下部金兵衛とか、写真家たちのことを調べたこともあります。さかのぼると上野彦馬からの流れを汲んでいることがわかりました。ただ人工着色の写真は東京都写真美術館や、昔の江戸の風景をまとめた写真集では見たことあっても、実際のものを手にしたことがなかったんです。それが偶然、35歳くらいのときにパリで骨董屋さんに入ったら、日下部金兵衛の横浜写真のオリジナルプリントを発見したんです。ふつうのリフィルのようなものに収められて、「ジャパニーズオールドフォト」と書いて積み上げられていました。抽出にもいっぱい入っていて、「見ていいのか」と訊ねると「見ろ、見ろ」というもので、いっぱい見たなかに知っている日下部金兵衛の作品があったから、それを2枚買いました。1枚、たしか3〜4万円だったかな。それを2〜3枚買ってもちかえって、当時の、1800年代のオリジナルをもとに、どのような乳剤や感光材料、どのような紙で、なにを使って色をつけたのか。そういうものをまたいろいろ分析しはじめるんです。自分で印画紙をつくってみて、ガラス板で写真を撮って紙焼きして、その後人工着色をオリジナルで試みたこともあります。ふつうの水彩絵の具を塗ると写真の上に幕が張っちゃって奥が見えなくなる。その対処法として、その下が透ける透明度の高いガラス絵の具のようなものを使っていたことがわかりました。いまは同じものはないので、画材屋さんに行っていろいろお店の人に聞きながら透明絵の具を探して、買ってきては試してみる。そんなことをやったこともあります。

──写真を、ただ撮るのではなく、撮ったものが像を結ぶ過程までも含めてアート、作品だということですね。

宮原 技術、技巧。自分のイメージからアウトプットとして最後に形になるまでという工程を考えると幅が広いですよね。

見せて、声に耳を傾ける

──夢画さんは広告をはじめ、いろいろなお仕事を手がけていますが、雑誌や広告のお仕事では作品制作とは異なり、クライアントのニーズを実現していくというスタンスをとられているのでしょうか。

宮原 そうなんですが、僕はもともと雑誌から入っているんです。エディトリアルのファッションでは結構カメラマンの主導でこう撮りたい、ああ撮りたいとけっこう自由が利くので、その点では好き勝手やらせてもらっていました。

──デビューされた媒体はなんですか。

宮原 『流行通信』です。

──私、インファスに勤めていましたよ。

宮原 本当ですか!? ありがたいことに「流通」がデビューだったんですよ。「流行通信」に載るといろんなところに見られるじゃないですか。「流通」をやったことによって他の雑誌『ハイファッション』や『装苑』から声をかけていただいたので、すごく感謝しています。

──お話のなかに出てきた媒体のうち2/3には休刊しました。1990年代と現在では雑誌をとりまく環境も、ファッション誌の役割も変化した気がします。

宮原 でも正直、いまと較べちゃうと、ビジュアルにかける熱意がぜんぜん違うと思うんです。1ページ1ページのファッションストーリーやビジュアルに費やす労力ですね。ある時期……というのはリーマンショックを境に、写真1枚、雑誌1ページに対する熱量が少なくなったと思うんです。たとえば裁ち落としでモデルが1体しか出なかったらワンコーディネートの服しか見せられない。そこで情報誌的に誌面を9分割するような見せ方を打ち出して、その流れに雑誌が全体的にシフトしていきましたよね。それによってクオリティの高いビジュアルが減っていったというのはファッションのなかで考えるとあるかもしれない。

──リーマンショックは2008年です。たしかにその頃から経済効果を優先するか、質をとるか、考え方の違いが際立ってきた気がします。

宮原 僕はデビュー以降、基本的に後者の立場でいました。雑誌でも広告でもわがままをいったこともあるかもしれません。ただ、リーマンショック以降、現場で意見が食い違う場面が生じ、落としどころがみつからずに悩んだこともあります。

──作品制作の面ではいかがでしょう。2024年末から2025年初頭にタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー / フィルムで開催された〈KATAMARI〉展ではインパクトの強い作品を多数展示されていました。

宮原 今回タカ・イシイギャラリーの個展〈KATAMARI〉で、展示していたカラーの作品ではヌードにフィルターワークで色味をつけたものがあります。手法だけとってみれば、60 年前に細江英公さんがモノクロで撮られているような写真なんですね。じつはあの作品の前に、いろんな人のヌードをこのスタジオで撮っていたんです。ヨリを撮ったりとか体のパーツを撮ったりとか、それを全部モノクロで仕上げていた。それをあるとき、妻に見せたとき、これは以前見たことがある、過去に写真の巨匠の方々がやってきたヌードの写真となにが違うの、現代に生きていて、いままで積み重ねてきた技術であったり、あなたにしかできない表現であったり、そういうものはないのってポロッといわれたんです(笑)。

塩田 厳しいね。

宮原 でもそれで思いついたんですよ。カラー写真でヌードは撮ったことないということに。カラーであれば、ファッション撮影ではフィルターを使うライティングを結構やっていたんですが、ヌードでカラーライティングはやったことないなと気づきました。それがギャラリーの方に作品を見てもらう約束の日の前日だったんです。そこからですよ。次の日の朝まで、家族をモデルにカラーフィルターでライトを組んで、バシャバシャ撮って、20枚くらいをほとんど徹夜でつくって翌日もっていったんです。それを気に入ってくれて、今回の個展は決まったようなものです。

宮原夢画「KATAMARI」(2024年)
宮原夢画「KATAMARI」(2024年)

──そう考えると、誰かに見せて意見をあおぐことは大切なんですね。

宮原 やって見せて、やって見せての繰り返しによって少しずつスキルアップしていける。やらないで止めちゃうとそこでずっと止まったまま、頭でばかり考えてしまう。行動に移せば、失敗しようが成功しようが、肥やしになると思うんですよね。もし躊躇している若い人がいるなら、失敗してもいいから、やってみたらなにか見えてくるかもしれない、と伝えたいです。

 物作りの人間は頭で考えることは大切だと思うんですが、頭でっかちになりすぎると、身動きがとれなくなって苦しくなっちゃうじゃないですか。苦しくなるのって意味がないからもっと解放してやりたいだけやってみる。はじめはモノマネでもいいと思うんですよ。僕もシオと出会った頃なんて、ロバート・メイプルソープの真似事の写真しか撮ってなかったですよ。

塩田 若いときはそういうものだよね。そこからはじまるわけじゃない?

宮原 ユリとか、モチーフも真似して、ぜんぜんかなわねえな、と落胆したこともあります(笑)。やっても追いつけない。追いつけないから悔しい。そこからまたどんどん重なっていくというか。やってみて気づくこともありますよね。

 うちの父親がすごいいいアドバイスをくれたことがあるんです。自分の撮った写真を自分がほんとうに尊敬する写真家の写真集の横に並べて置いてみろ、そうすると自分がいかに貧弱でレベルが足りないかよくわかると。そこに到達するにはなにをすればいいか。写真を置くと、逆算式にそれがわかるんだといわれたんです。それをたまにやっていました。それはそれは、悲しい結末を迎えるんですが(笑)。

 このレベルに到達するには自分にはなにが必要なのか。技術なのか思考なのかアイデアなのか、発想力なのか。そこに到達するにはいろんなものが必要じゃないですか。経験値もそうです。それをやってみたから、次につくる作品で到達できるともかぎらないし、それには蓄積が必要であって、そこに気づくためにも大切だと思うんです。

ユリがモチーフの桑沢時代の作品「calls and lily」

世代をつなぎ、変わりゆく写真

宮原 シオはカメラ、なに使ってるの? (塩田氏の手持ちのカメラをみて)α7、ソニーか。

塩田 仕事はこれだね。

宮原 でもフィルムでも撮るでしょ?

塩田 仕事はあまり撮らないけど、作品はなるべくフィルムで撮ろうと思っている。最近は作品自体あまりやっていなくて、本(写真集)をまとめる作業に集中しているところ。作品はフィルムでやりたいといまだに思っている。

宮原 僕もそうだったんだよね、4年前まではね。じつはうちの息子も写真をやっているんだけど、彼が写真をはじめる1 年前ぐらいに機材を整理したんだよ。アナログをあまり使わなくなって、それまで使っていたブローニ、ハッセルのシノゴとかエイトバイテンのカメラを処分してしまった。そこ(とスタジオの一画を示す)も暗室だったんですよ。ダーストの引き伸ばし機とかカラーのプロセッサもあったんだけど、やめちゃったんです。5年くらいまったく稼働してなかったから今後使わないんじゃないかなと思ったし、またいつでも戻れると思っていたしね。それがいまやめちゃくちゃ高くなっている(笑)。機材が残っていたら彼(息子)もいろいろ勉強できたのに、とは思った(笑)。

塩田 でも家にカメラマンがふたりいるならもう1回やってもいいでしょ。やろうよ。楽しいよ、フィルム。

宮原 そうだよね。いちおうフィルム現像は教えたよ。(現像)タンクをヤフオクで買ったよね。

宮原絵燈 はい。

塩田 俺もお父さんに教わったよ。

宮原 昔僕の家によく家に遊びに来ていたからね。

宮原絵燈 そうなんですね。

塩田 実家に遊びに行ってプリントを教えてもらったりね。

宮原 暗室があったもんね。

塩田 そうだよね。俺はずっと学生の頃から暗室に住んでいた。いまだに自分の部屋は暗室(笑)。桑沢のときもワンルームで暗室。

宮原 そういえば行ったことないな。でもいまもそうなの!?

塩田 いまはワンルームじゃないけど、自分の6畳の部屋は暗室。だからずっとそこで、作業も暗室。俺はプロセスとしての暗室が大事だと思っているから。そこでの思考というかね。それによって変わるじゃない。制作のプロセスによって結果が変わってくるからできるかぎりはやりたい。真っ暗な中にひとりでいる時間があるのかないのかはすごく違うと思う。

──絵燈さんはなぜ、写真をやろうと思ったんですか?

絵燈 もともとは祖父がアートディレクターで、シンプルにカッコいいなと思ったことがきっかけです。いまふつうに流れているCMにかっこよさを感じないんですが、祖父の制作したCM はかっこよかった。

宮原 実家に行ったときにうちの母親、彼には祖母ですね。おばあちゃんからおじいちゃんがこういうのをやっていたのよ──みたいなのをビデオで見せてもらったのだと思います。うちにはVHS のビデオデッキまだあるので。

絵燈 かっこいいと感じて、写真のこともわからないといけないとも思ったので、そこからアシスタントをはじめたら、写真のほうが面白くなっちゃったんです。

──夢画さんの親御さんはどういうCMをつくっていらしたんですか。

宮原 キリンのメッツとかマルイ、1990 年代のマルイですからテレビでも相当流れていました。親父が家で絵コンテを描いていて、それが半年後には映像になってテレビで流れている。同じ絵柄が実写になっている、そういうことがあると、すごく影響を受けますよね。

──お父さまは他界されたんですよね。

宮原 早かったんですよ。僕が28 のときに病気で亡くなっているので。

──28というと、キャリアとしては──

宮原 まだ駆け出しぐらいですねですよ。フリーランスになってちょっとたったくらい。独り立ちした姿を見せられなかったのが心残りですけど、その当時から、僕は仕事以外にも作品をつくっていて、それを見て納得はしてくれたみたいです。こいつはもう大丈夫みたいな。それは親父が亡くなった後に母親から聞きました。それを聞いたときはうれしかったです。ちゃんと納得して向こうへ行ってくれたんだなと。

いかに触覚を立てるか

──写真界にたいする今後の展望をお聞かせください。

宮原 いまAIとかがすごく出てきているじゃないですか。人をつくれちゃうとか、フォトショップは僕も使っていますけれども、どんどん発達していますよね。そういう意味合いでいうと、デジタルを使ってはいますが、なんでも勝手につくれちゃうんじゃないかと怖さも感じます。そうなってくると、そういうツールを使いつつも、こっちがコントロールしなきゃいけない。自分の中の確乎たる芯、ぶれない芯みたいなのがないとマズいというのはつねに感じています。それもあってまたフィルムやりたいなとも思うんですよね。

 最近、デジタルとアナログという写真のあり方については心が揺れ動いています。世代的にも両方経験してきていますしね。優劣の問題ではないんですね。アナログで撮ったからといっていい作品になるわけではありませんから。ただアナログの魅力、ここがすごいというところは極めてきたつもりなので、その醍醐味みたいなもの、そこをまた表現として使うことにもう一度トライしていきたいとは思っています。

──伝える側としてはいかがですか? アナログのよさを含め、ご自身の知見や経験の継承についてはどう思われますか。

宮原 知っていることは教えたいというのはありますよ。でも、売ったものを買い戻すには結構な金額になりそうです(笑)。

──息子さんの世代以降、これから桑沢に志望して入ってくる学生の方で、写真をやりたい、という人がいたらどう声をかけますか。

宮原 そこはすごく難しいですね。写真家という生き物は他の人と同じビジョンじゃダメだと思うんですよ。見ている世界ですよね。要は引っかかる世界、自分が見ていて「あっ」と気づく世界。たとえばシオにはシオの世界があって、そこに触覚が立ってピンと触れるわけですよ。そういう個性をもっているわけじゃないですか。僕は僕でもっていて、その個性を開花させるのはすごく大変だと思うんですよ。それを見つけられたら正解だと思うんですよ。ただそれを見つけるには何年かかるかわからない。旅みたいなもので、1年で見つかる人もいれば15 年かかっちゃう人もいうる。でもそれをトライしていくのが写真の世界だと思うんです。

──クリエイティブということですね。

宮原 なにかをつくることにおいては唯一無二の、自分にしか見えてない、自分にしか感じとれない世界を見つけていってほしい。そういうふうに思います。

(2025年2月27日 Muga Miyahara Fotografia にて/撮影:塩田正幸)

Profile
宮原夢画(みやはら・むが)
1971年、東京生まれ。1993年、ビジュアルアーツ卒業後、桑沢デザイン研究所入学。1994年にギャラリーden(東京)にて個展「muga miyahara exibition」開催。96年にフリーランスフォトグラファーとして活動を開始し、国内外を問わず、数多くの雑誌媒体や企業広告を手がける。2010年には自身の写真事務所「Muga Miyahara Fotografia」を設立。主な個展に、「TOKONOMA & Nulla nascadal nulla」エモン・フォトギャラリー(東京、2008年)、「invisible layers」MICHEKO GALERIE(ミュンヘン、ドイツ、2010年)、「散華 sange」hpgrp gallery(東京、2013年)、「シンケンシラハドリ」72 Gallery(東京、2014年)、「Renaissance」タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー / フィルム(東京、2018年)など。1992年に日本写真家協会JPS 展入賞、2005 年毎日広告デザイン賞を受賞。写真集に『シンケンシラハドリ』(Omoplata 刊、2014年)、『散華』(atelier vie 刊、2013年)など。2024〜2025年にタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー / フィルムで「KATAMARI 塊」展を開いた。
アーヴィング・ペン
(Irving Penn 1917〜2009)米国出身の写真家。ニュージャージー州ペインフィールドに生まれ、フィラデルフィアの工芸美術学校で、ファッション写真の土台を築いたアレクセイ・ブロドヴィッチにデザインを学ぶ。1943年より、アレキサンダー・リーバーマンがアートディレクターをつとめる『VOGUE』に従事。70年の長きに渡り、各国「VOGUE」の誌面や広告を彩る写真作品を撮りつづけた。弟は『俺たちに明日はない』(1967 年)で知られる映画監督のアーサー・ペン。
ヘルムート・ニュートン
(Helmut Newton 1920〜2004)ドイツ出身の写真家。ユダヤ人の父と米国系ユダヤ人の母の間に、ヴァイマル共和国下のベルリンで生まれる。10代より写真に興味をいだき、写真家エルゼ・ジーモンのもとで研鑽を積むも、ナチによるユダヤ人迫害のため、故国を逃れる。戦後、フリーランスのカメラマンとして「PLAYBOY」誌をはじめ、多数の媒体をにぎわせ、1960年代初頭のパリ移住後は「VOGUE」などの媒体で、エロティシズムとフェティシズムが交錯する作風を確立。写真史に大きな足跡を刻んだ。
ニコマート
日本の光学機器メーカー「ニコン」の旗艦モデルであるニコンFシリーズの廉価版一眼レフカメラ。後述のF4は1988年の発売。
ロバート・キャパ
(Robert Capa 1913〜1954)ハンガリー生まれの写真家。20世紀を代表する戦場カメラマン、報道写真家。スペイン内戦下の共和国派民兵が銃弾に打たれて倒れる瞬間を捉えたとされる1936年の「崩れ落ちる兵士」がアメリカのグラフ誌「LIFE」に掲載され、名声を得るが、パートナーのゲルダ・タローによる撮影であることがのちに判明。1947年に国際写真家集団マグナム(MAGNUM)を結成。54年4月、「カメラ毎日」の創刊記念で来日後、バンコクからインドシナ半島へ渡ったのち、5月25日、ベトナム北部のタイビンで地雷に触れ、爆死した。本名フリードマン・エンドレ・エルネー。
ロバート・メイプルソープ
(Robert Mapplethorpe 1946〜1989)米国ニューヨーク州生まれの写真家。ブルックリンのプラット・インスティテュート在学時に出会い、やがてパンクの女王と呼ばれるまでになるパティ・スミスと暮らした日々は2012年刊行の『ジャスト・キッズ』(パティ・スミス著、にむらじゅんこ / 小林薫訳)に詳しい。1989年にエイズによる合併症により死去。花やヌードが題材のモノクロ写真でつとに知られる。
細江英公
(ほそえ・えいこう 1933〜2024)山形県米沢市生まれの写真家。東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業後の1959年、キャパのマグナムにならい、写真家集団「VIVO(ヴィヴォ)」を川田喜久治、東松照明、奈良原一高らと結成。国内外で数多くの展覧会を開催する一方で、大学やワークショップでの写真教育にも尽力。2010年、文化功労者として顕彰。2017年、旭日重光章を受章。代表作に三島由紀夫をモデルにした『薔薇刑』(1963年)、舞踏家土方巽を東北の地でとらえた『鎌鼬』(1970年)など。
植田正治
(うえだ・しょうじ 1913〜2000)出生地である鳥取県境港市を拠点に70年ちかく活動をつづけた写真家。被写体を事物のように配置する植田調は写真生誕の地フランスでも日本語の発声そのままの「Ueda-cho」で通じるという。地元鳥取の砂丘を舞台にした連作が代表的。2000年の没後、評価が高まり、多数の関連書が刊行した。鳥取県西伯郡伯耆町に個人美術館「植田正治写真美術館」がある。
ロゴス
渋谷パルコパート1の地下1階に1986年に開店した洋書店。2012年にパルコブックセンターに統合後、2016年の建て替えにより閉店。ギャラリーを併設していた。
ガラス乾板
写真乾板あるいは単に乾板とも。感光材料の一種で、写真乳剤を無色透明のガラス板に塗布したもの。
スチームパンク
内燃機関や電力ではなく、蒸気機関が動力の主流であることを条件にしたSFのサブジャンル。ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』(1990年)を嚆矢に、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』や『ハウルの動く城』、大友克洋の『スチームボーイ』など、多くの作品の世界観の礎となった。
「deja-vu」
写真評論家飯沢耕太郎を編集長に1990年に創刊した季刊写真誌。第1号、特集「『デジャ=ヴュ』の眼」より1995年の「荒木経惟──私小説」まで、全20号を刊行した。
引き伸ばし機
フィルムの像を拡大、投影し、印画紙に焼きつけるための機械。発明者の詳細は不明ながら、遅くとも19世紀なかごろには原理的な完成をみた。使用するレンズは脱着可能で、後述のローデンシュトックやシュナイダー・クロイツナッハはドイツのレンズメーカー。
4×5、8×10
大判カメラのフィルムサイズのこと。前者は4インチ(10センチ)×5インチ(12.5センチ)、後者は8インチ(20センチ)×10インチ(25センチ)のシートフィルムを使用し、それぞれシノゴ、エイトバイテンまたはバイテンなどと呼ぶ。
エドワード・スタイケン
(Edward Steichen 1879〜1973)米国の写真家、画家、キュレーター。1902年にアルフレッド・スティーグリッツらと写真家集団「フォト・セセッション(Photo-Secession)」を結成し、写真の芸術性を確立するための「ピクトリアスム」という潮流の立役者のひとりとなる。ファッション写真の草分けとして、また園芸家、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門のディレクターとしても多才な活動に従事した。
エドワード・ウェストン
(Edward Weston 1886〜1958)米国の写真家。エイトバイテンを用い、ピクトリアスムを経過したストレートな作風でヌードや貝殻などの被写体をとらえた。1932年にアンセル・アダムスらとグループf/64を結成。ストレートフォトへの志向性をさらに鮮明にした。
銀塩ではないオルタナティブプロセス
「銀塩」とはハロゲン化銀を用いて印画紙に像を定着する方法によるプリントのこと。オルタナティブプロセスはそれ以外の過程を経たプリントを指し、後述のプラチナを使用したプラチナプリントや、鉄塩の化学反応を利用したサイアノタイプ(青写真)などがそれにあたる。
アルフレッド・スティーグリッツ
(Alfred Stieglitz 1864〜1946)アメリカ、ニュージャージー州ホーボーケン出身の写真家。スタイケンらとのフォト・セセッションを経て、ストレートフォトに転じ、芸術のいち形式としての写真の地位確立に寄与した。デュシャンやピカビアなど、ニューヨークダダの拠点となるギャラリー291のオーナーでもあり、編集に携わった雑誌「カメラ・ノート」では写真の技術的発見にも貢献した。妻は花や動物の骨などを題材にした作品で著名な画家ジョージア・オキーフ。
ベル・エポック
(Belle Époque)仏語で「美しい時代」を意味する時代区分。19世紀末から第一次世界大戦勃発前(〜1914年)の期間、パリで勃興した美術、演劇、音楽などの文化状況を指す。米国におけるジャズ・エイジと同義。
横浜写真
幕末から明治にかけて、開港地横浜で流行した商業写真。日本らしい文物を鶏卵紙に焼きつけ、顔料で彩色した写真は、土産物として国内外問わず人気を博した。
日下部金兵衛
(くさかべ・きんべえ 1841〜1932または1934)甲斐国(現在の山梨県)生まれの写真家。幕末〜明治期に日本で活動したフェリーチェ・ベアト、ライムント・フォン・シュティルフリートのもとで働き、1881年横浜にスタジオ「金幣写真」を創設。横浜写真を売り出した。
上野彦馬
(うえの・ひこま 1838〜1904)幕末から明治期に活動した日本の写真家。現在の長崎市に生まれ、地元に開院した医学伝習所で化学を修得する過程で写真術に関心を寄せ、化学解説書『舎密局必携』を刊行。和装にブーツ、懐手で台のようなものに寄りかかる坂本龍馬の肖像写真の撮影者だと見なされてきたが、実際に撮影を行ったのは弟子の井上俊三だという。
「流行通信」
INFASパブリケーションズがかつて刊行していた日本のファッション誌。1966年に「森英恵流行通信」として創刊後、ファッションの枠にとどまらず、アートやカルチャーをあつかう媒体として、横尾忠則、浅葉克己、藤本やすし、服部一成などがアートディレクションを手がけた。2008年1月の休刊後も不定期の刊行がある。
「ハイファッション」や「装苑」
文化出版局が刊行するファッション雑誌。「ハイファッション」は1960年、「装苑」は1936年にそれぞれ創刊。モード系とも呼ばれる高品質な誌面づくりは高い評価を得た。「ハイファッション」は2010年に休刊。
リーマンショック
米国の住宅市場の悪化による住宅ローン(サブプライムローン)危機をきっかけに投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが2008年9月15日に経営破綻した金融危機。不況下の国内では頻発する「派遣切り」による生活困窮者の避難所としての「年越し派遣村」が2008年の年末、日比谷公園に開設した。
α7
ソニーが2013年に生産を開始したミラーレス一眼カメラおよびそのシリーズ名。軽量ながら高い描写力に定評がある。