「ICSID'75 MOSCOW」と東ヨーロッパの
インダストリアルデザインの視察報告
金子 至
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 翌日もまた私はモスクワの繁華街通りを歩いてみることにした。ゴーリキー大通りから、プーシュキン広場を経て、環状のチャイコフスキー通りから、カリーニン通りと回っていった。建築はレニングラードのように様式的なものは少ないが、といって新建築は見当らない。むしろかつての建物の復元の方向をたどっているのではないだろうか。東ヨーロッパの訪問国は、その復興に古都の復元を前提にしていることが共通点である。そのような街なかに、新らしいバスストップのデザインがある。このプロポーションと考え方は、あきらかにウルム的である。たしかにウルムのハンス・グジロ氏(20年位前に彼は日本を訪れている。たまたま私達のデザイン事務所で、ビア・パーティをした。彼はブラウンの基本的デザインの創出者でもある。ウルムの閉鎖前に急死、1920年生れ)も度々ソ連に招かれたことを想起させるものであった。

 専門店はそれぞれ余裕のあるスペースをとっている。例えば靴店を5カ所まわってみても品種は一定している。男子靴で約5種類位である。しかし、ある時突然新しい入荷があって、またたく間に行列が30人位できる。流通機構は、自由主義国と違っていることはわかっていても、どのように店頭に出るのであろうか。そのシステムは解明できなかった。街では白い毛皮に白いブーツのスタイルを見受けることがあるが、それが何処に何時売られるのであろうか。

 一方住宅政策は、重要な施策であって、1日平均150戸が建つ。1人の面積は9m2であり、緑は1人当リ13m2をとっている。給与は月平均147ルーブリ(約45,000円位)の内2%が家賃である。医師は10,000人に対して25名を基準としている。私はこのような生活を見ることができないかと思った。国営アパートの見学はモデルルームしか見ることができないようなので、そこには生活がないから実体が不明になる。しかし、幸いなことにたまたま紹介された女性が、心よく引受けてくれた。彼女はまだ世に出ない新劇の女優であった。この国で"新劇"といういい方はまったく当を得ていないかも知れないが、10階建の団地は日本の公団のものに近い。エレベーターは片開きで中扉は蛇腹であって、閉める時に鉄の音のするものであった。室は3室にバス、トイレ付である。9m2という目測がなれていないせいか、やや長い8帖位が一室と思えばよい。浴室はホウロウの猫脚つきのバスで、高さは70cmもある。トイレは同室で、後になってポーランドのものと同質のものであった。水洗のハンドルは1m以上の上にあって、両手で押す程の力がいるプッシュ式であった(注6)。彼女の妹に紹介され、ズブロッカを何度も乾杯を重ね、その間に演劇と作家の話題などが出て、少ない知識を呼びもどさねばならなかった。椅子はスタイリッシュな量産の小椅子で、璧面は厚く、プライバシーは保たれているようであった。窓はスチールサッシュである。

全ソ インダストリアルデザイン研究所 VINITE

●モスクワ郊外にほど近いところにある国立のこの研究所フィニテは、われわれが正式に訪問したものである。正式というのは、事前にコンタクトを取ったことにもよるが、それは今回のICSIDのコングレスの参加国の団体中で、48名中幹部(理事)が7名も出席しているということは、他団体にはなかったことからでもある。昨日終了したコングレスであり、開催国の多忙ななかでの訪問は、両者とも貴重な時間であった。そのため会長ソロビエフ氏(注7)は出席できず、ムニポフMunipov副所長によってVINITEの概略の説明があった。

 「VINITEの組織化の胎動は1920年の時点に逆のぼる。20世紀を考える問題の中で、当時強調されたことはErgonomics(注8)からのアプローチであった。しかし問題の把え方にはある限界のあるものであった。実際デザインの推進は、経済的な点が基盤であり、産業上のコントロールに対する考え方であった。しかしその後、基本的には全体を把える方向で推進していく態度が生れ、バウハウスの影響も受けて、社会主義国の路線の上で、デザイン行政、企業、生活という包含された形へと主題の転換が行われた。30年前第2次大戦後の荒廃は、僅かな人間がこのことにたずさわっていた。それは今回のコングレスのように、世界のデザイナーが互いに緊密に話し合うようなことは、全くユートピアとしか考えられなかった。そして、全ソ閣僚会議の科学技術国家委員会の管轄下のもとに、1962年開設され、9市にブランチを設けた。日本に近いハバロフスク、レニングラード、スベルドロヴスク、キエフとハリコフ(ウクライナ共和国)、ミンスク(白ロシア)、トビリシ(グルジア)、イリアン(アルメニア)、ビルニウス(リトアニア)であり、2,000人がデザイン関係の仕事に従事している。始め一番多くは建築家であって、画家、彫刻家、エンジニアと次第に集合し、8つの教育機関でデザイン教育を行った。もともとモスクワにはアートスクール(旧ストロフスカヤ学校)があり、レニングラードには、ベラムヒナ工芸大学(旧シュテイグリッツ大学)などもその中に入る。連合政府は具体的かつ明快な方針をたて、デザイン方法のコミュニケーションを行い、プロジェクトチームをつくり、特定の産業に協力する体制をとった。デザイナーは問題点を煮つめながら、新しい考え方を提案してからデザインの方法に取りくんでいく。

 VINITEの業務はこのモスクワの本所と支所(ブランチ)では違っている。モスクワの本所は、主にデザイン理論と方法であり、支所は地域的な産業と直結した具体的な業務がある。デザイン開発料は、国家も出資し、企業は委託料を支払う方法をとっている。現在10〜15のプロジェクトがある。一つの例では60%を政府が保証し、企業の合意によって30%、支所が10%のデザイン開発費が支出される。それは国家が必要と認めたものである。本所と9支所とは別にモスクワにはSKHKB(インダストリアルデザイン局)があるが、組織としては別である。

 VINITEは末端まで明解に組織されており、最高は科学技術委員会が統割することになっている。本所は大きく3つのグループに分けられる。1つはデザインの科学的方法論のベースである。例えばErgonomics─生理、心理、産業心理、社会心理、応用心理等であり、第2のグループは材料学的な─質、色彩、新材料の合成に対する研究である。第3は消費者製品との関連開発である。第1のグループは外国からの文献資料を得ているが、これは英国よりはるかに高い水準のものである。VINITEのデザイン方法論その他は、当所の出版活動によって、教育面にも影響を与えていると考えられるが、しかしデザイン教育とは直接関連はない。またVINITEは全ソ科学技術委員会に対してデザイン問題について提案することができる。なおインダストリアルデザイナーは、この本支所とは別に企業にも2,000名(注9)がその業務に当っている。ある自動車会社は、約40名のデザイナーがそのセクションに配属されている。」

 以上がムニポフ副所長の説明であった。われわれの約40名の訪問は、話し合うという雰囲気にはならなかった。いくつかの質疑応答の中で、日本のデザインについて「参考になるものはない」と言い切つたことはまことにショックであった。公式的建前論とも解せるが。しかし社会主義国の先鋒としてを革命後の生い立ちの中で、その主義に対してどのようにデザイン問題を組立てなければならなかったか。重要なことは、インダストリアルデザインの有効性を国が認め、必要とし導入した点である。それは科学的な理論追求による研究の立証と原理に基づいている。インダストリアルデザインの導入によって産業に対する問題─労働手段、労働環境、─工業製品に対する問題、生活環境の新しい形成、経済問題─貿易問題、デザインの考え方それ自身が経済的価値を生む等─社会主義国として初めてシステム化されたのである。

 しかし、モスクワの私の見たいくつかのこと柄は、"デザインの成果"を早急に一般民衆に与えなければならないと考える。情報のコントロールは、民衆の行列をなくす働きをすべきだし、労働力不足による生活の機械化も考えざるを得ないであろう。私はモスクワのインテリ層の本意をききたかった。がそれは不可能なことであろう。生活革命という語が去来した。しかし私は期待している。今後必ずわれわれにソ連の生活デザインの成果を見せてくれるであろう。

ポーランド─ワルシャワ、クラコウ

●VINITE訪問後はかけ足のモスクワ空港であった。エールフランス725便707でワルシャワへ発った。17:05時発─17:05時着、時差は2時間であった。ワルシャワの空港で待ちうけていたのは、写真家のマリノフスキー氏であった。彼等はテレビカメラをもって遠来の客を各大使館への情報としての撮影であった。空港の往ききする人達は、この異郷の旅行者を遠まきにしていた。50才に近いと思われるガイドのイボンYvonne女史は、始めての日本人旅行者のためかいく分上気しているようであった。夜は一流ナイト・レストランでワインと久方ぶりの本格的な食事ができたことで、コングレスの緊張がややほどけてきた。

ワルシャワ(ポーランド)広場の井戸の上部。  ワルシャワ ビスワ河に沿う公園の彫刻。
ワルシャワ(ポーランド)広場の井戸の上部。   ワルシャワ ビスワ河に沿う公園の彫刻。

 ワルシャワ効外の陶器工場テーブルポルセリングラスの見学は特筆すべきことはあまりない。見学ができたのは彩釉と陳列室であった。回転台にのせたティーカップと皿に太いフチ付の彩釉であった。若い彼女達は、おもいおもいの"飾り"を仕事のテーブルの前に置きながら、これはほとんど観葉植物であったが、それと自分用の手箱の表にそれぞれ好みの写真が張ってある。写真は映画女優が多かった。ソフィヤローレンもあったが、ほとんどが女性の写真の中に、一人ジャンポール・ベルモンドがいた。この工場の磁器(注10)は1,200℃で焼いているから、質としては中級製品である。デザインはシンプルだが、深みにかけている。肉厚はフィンランドのアラビア製陶所の 器製食器位であるが、質、デザインとも及ばない。まして、ロイヤル・コペンハーゲンのグレードではない。また日本の大倉陶園の1,460℃焼成の上手でもない。まことに庶民性のある量産磁器であった。従業員700名中80%は女性で、1日1,800個を生産し、40%は輸出である。陳列室にある初期のものは密度が高く、良質のものであった。大倉陶園も創立当初(1920年)の方が今のものよりはるかによかったことを想起したが、その意味は省略したい。

鉄細工の看板、スープを示すレストラン。  鉄の看板は、丸が女性で三角は男性。トイレの区別にもなっている。正面の斜めの壁には、銃弾のあとが生々しい。ワルシャワ旧市街。
鉄細工の看板、スープを示すレストラン。   鉄の看板は、丸が女性で三角は男性。トイレの区別にもなっている。正面の斜めの壁には、銃弾のあとが生々しい。ワルシャワ旧市街。

 ワルシャワでは丁度12日間ショパンコンクールが開催されていた。1人45分間課題曲を含めて、多分1859年からの伝統あるスタインウェイの鍵盤(キイ)を栄光と緊張をもって審査員と聴衆の集中のなかで弾くことであろう。世界の若手の登龍門であるコンクール音楽は、聴衆に緊張を与えすぎて楽しめない。私はこの招待に欠席した。同室の若いデザイナーは、折角だからといってカセットでプレイしてくれたが、実況を伝えるにはほど遠い再生であった。しかしスタインウェイの音色であることは十分察せられた。カセットはこの場合あった方がよかったのか、道具は使い分けなければならない。そして親切さだけが残った。

 ワルシャワの街はほとんど第2次大戦で85%潰滅状態になった。1948年から再建された。ポーランド人民共和国は、日本の四国・九州を除いた位の面積であり、人口3,300万人、コペルニクスやキューリー夫人、ショパン、パデレフスキーの国でもある。ヨーロッパの中央がこのワルシャワであるといわれている。ここにはパデレフスキーの経営しているホテルが残っているのは以外であった。8世紀からの古都であり、10〜13世紀の建築、特に15世紀のゴシック建築聖マリア教会は、ヨーロッパ中最古のもので尖塔は80mもある。同行の山口昌伴氏(GK道具部長、当研究所講師)との話で、石積には当然精度ある内型を木材で組立て、外側に足場を組まなければならない。しかし日本の大仏殿はこの"内型"の工程で成りたつが、石積みは二重の構造プロセスになるのではないか。

 1948年に始まった再建は、ある地域を完全に復元した。戦前建築科の学生が丹念にスケッチしておいたためであった。広場をもつこの地域は、静かな石畳みの古都の面影であり、おりからの小雨と馬車の蹄の音に中世の情感をもたらせてくれるものであった。

 マリア・ジャフシャクスカMaria Zakrzewskaは日本の明治以後の外来語の研究をしている21才の大学生である。彼女は私と共に歩きながら、一日一度はこの広場を好んで歩くといっていた。そして、建物の説明を細かく硬い発音の英語で話してくれた。鉄細工の看板や、広場での市、中世的なインテリアのコーヒー店、特にアクセサリーの個性的なデザインには金属工芸として高い位置が保たれていることが解った。

 ワルシャワからPolskie航空のフレンドシップ機で約50分がクラコウCrakawである。第二次大戦に珍らしく戦火を受けない古都である。市内の民族博物館の農民芸術は興味あるものであった。野鍛冶の農具や、特に刃物の打出しに動物のシルエットを溶け込ませているなど、自然と人間との調和の発想が、ユニークな道具を生んだものかと思う。これにくらべて1919年の山本鼎(かなえ)の農民美術運動の表出は貧困であると思った。そしてアメリカのシェーカー教徒の家具との類似点をさがしたりした。私は市電に乗って再び訪れてみた。デザインは彼等の手の中から生れているのである。

クラコウ民族博物館の酪農用具。  クラコウ民族博物館の包丁。
クラコウ民族博物館の酪農用具。   クラコウ民族博物館の包丁。


(注6) ハンドル類、ドアなど全てに力がいる。チェコのプラハでは、市電の運転手(女性)は線路のポイントの切替えを手で動かして運転台にもどった。
(注7) ユーリ・ソロビエフ Juri B. Soloviev 1920年生れ。1943年以来デザイン活動をしている。貴族出身といわれる。1948年ICSID京都大会にも出席。国家組織が違うが、大臣級。
(注8) ヨーロッパでは ergonomics で、主に労働科学からのアプローチでった。アメリカはこれとは別に Heuman engineering として工学から把えている。
(注9) 各国のインダストリアルデザイナーの数は正確には解っていない。たぶん、米国・日本・ソ連の順になろうか。企業では、自動車産業のGMが1,700名を傭したことがある。日本では松下電器の250名が最も多い。
(注10) 量産磁器食器は、石膏型に陶土を泥奨状にして流し込む。一型で何個を取るかが精度に関係する。この社会では200個以上、大倉陶園は50〜100個である。焼成温度の1,460度Cは、世界でも食器としては最高温度。


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