「ICSID'75 MOSCOW」と東ヨーロッパの
インダストリアルデザインの視察報告
金子 至
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プラハ

●プラハは東ベルリンOstbahnhof駅から急行でドレスデンを経て5時間35分の車中である。チェコスロバキア社会主義共和国CSSRは1945年5月解放された。首都プラハPrahaはモルダウ河をはさんでいて、中部ヨーロッパ、ポヘミヤ地方に位置し、最古の都市の一つである。すでに9世紀には文化の中心であり、11〜13世紀のロマネスク建築、15〜16世紀のルネッサンス建築、17〜18世紀のバロック建築など建築様式の展観できる古都である。"1,000の塔のある黄金の街"といわれているが、実際は400の尖塔がある。ナチはパリと同じようにこの都市を破壊しなかった。視察はカルロビバリ(注12)にあるガラス工場と、著名なシュコダSkoda自動車工場の予定であったが、ガラス工場は陳列館のみの許可と遠隔の地であるため中止し、シュコダはOKであったが、日本外務省への書類がないため中止になってしまった。

 この中止をチェコデザインセンターへ連絡したところ、早速プロフェッサーでインダストリアルデザイナーのツクニィ氏Prof.Phdr Petr Tucnyがわれわれのホテルに彼のデザインした工具と、スライドのプロジェクタを大鞄にかかえて訪問してくれた。われわれの6人が彼を迎え入れた。彼はプラハ在住であるが、西独のBELZER工具会社のデザインを引受けている。かつてウルム造形大学にも教授をしていたので、前述のグジロ教授の親友でもあったという。デザインされた工具や建設機械は生産されていて、西ベルリンのGUTE FORMの工具には大分批判的で厳しい評価をしていた。特にデザインしたハンマーの柄に考慮する点があって、彼の強調したいところは私の木彫用玄能の柄に考え方がまったく近いものであった。しかしチェコ語から英語に、そして日本語にきく2〜3倍の言葉の壁は、私の話の入る余地もなかった。彼の論旨を聞くことで一杯であった。

 サバリッシュのチェコフィルの今夜のコンサートの予定も時間のため満員で入場できなかった。私達は正装した男性と、毛皮のコートをクロークに預ける彼女達の長い服装と肌をかいま見ながら、広いコンサートホールの階段を降りて、つめたい広場から年配の女性の運転する二輌連結の市電を待った。

プラハのナショナル技術館(チェコ)内の飛行機とSL。  ヤワのオートバイ(チェコ)緩衝装置が不明である。試作機ではないかと思われる。
プラハのナショナル技術館(チェコ)内の飛行機とSL。   ヤワのオートバイ(チェコ)緩衝装置が不明である。試作機ではないかと思われる。

 ナショナル技術博物館Narodni technicke muzeumは思いの他の収穫であった。日本の博物館のイメージがこの参加者を少なくしてしまったのであろうが、不参加者は後に残念がる程のものであった。これも前述のデザインセンターの示唆によるものであった。建物の一部は吹抜けの2、3、4階に廊下を巡らした80×40m位の大きさのものであって、1910年のダイムラーの複葉機や1900年代初頭のタトラ(シュコダの自動車)から、メルセデスベンツを含めたクラシック・カー、ヤワ(チェコの代表的オートバイ)とSLが各年代を代表して所狭しと並んでいるのはまことに壮観であった。われわれのだれもがフィルムの不足をきたしたようであった。私は見ることと、シャッターを切ることに忙殺されていたが、ふと私ほどの年配者のいることに気付いた。多分エンジニアであろう。静かに、しかも機械の見所をおさえた視線で凝視しているのである。その見方はマニアの目ではなく仕事を通したプロの目でもある。ものをいたわりながら暖かく見ている目である。同じような見学者がもう一人いた。あたりは5、6人の小学生とこの静かにはなれた2人と、シャッターを切る10何人かのわれわれがこの広い吹抜けの建物の中のいるだけである。あの2人の見学者の背後にチェコのあの緻密な機械工業があるのであろう。入場は無料である。

チェコ・インダストリアルデザイン協会のカタログ。Prof Tvcny氏の工具デザイン。  広場の井戸ポンプ。(プラハ)
チェコ・インダストリアルデザイン協会のカタログ。Prof Tvcny氏の工具デザイン。

  広場の井戸ポンプ。(プラハ)
昨年3月に開通したプラハの地下鉄のサイン。   同地下鉄のサイン。
昨年3月に開通したプラハの地下鉄のサイン。   同地下鉄のサイン。
同地下鉄のサイン。   近代彫刻的な宮殿の鉄の案内図。建物によってパターンをかえている。(プラハ)
同地下鉄のサイン。   近代彫刻的な宮殿の鉄の案内図。建物によってパターンをかえている。(プラハ)

 プラハのデパートは一つの特色をもっている。1階は日本の場合とあまり変らない商品(品種は勿論少ないが)と思うが、2、3階は工具や電動、電気部品、工事用配線器具などの電材が売られている。これは工業国の特色であろうか。4階から上へ家電製品、厨房用設備、サニタリーウェア、インテリアの製品群が列んでいる。大工と左官の職人が2階の売場で、大きい紙袋に工具をつめてもらっているのが目に映った。ファッション関係の雑誌にはいつも気を配っていたが、モスクワ、東ベルリン、ポーランドのワルシャワでも聞いたが無いようであった。勿論週刊誌らしきものも無い。人通りの多い夕方の繁華街に、私は何か見かけた顔のあることに気がついた。それは1937年に私が師事した、建築家のアントニン・レイモンドAntonin Raymond氏(注13)の顔立ちであった。彼はこの国の出身でアメリカに渡り、あのフランク・ロイド・ライトのアシスタントとして、日本の帝国ホテルの建築設計に加った一人であった。これは私だけの懐しい印象であった。

ベオグラード リュブリアーナ

 プラハの空港は朝早くから濃霧に包まれていた。視界は100mも困難であった。夕方になっても霧は晴れず、飛行に不可能な状態が続いていた。交渉は夜半過ぎの午後2時に明朝の飛行スケジュールが成り立って、空港のフロアーが応急のベッドに変った。貴重な1日が消えていった。(4日後同じような条件で60名が航空事故で死亡している)ユーゴスラビアのザグレブ経由は、ベオグラード経由となり、日曜を過ごす唯一の休養の地ドブロブニクへは乗リ切れず、私を含めた6名がベオグラード(英語ではベルグラード)に6時間を過ごすことになった。ドナウ河とサバ河の河畔にあるもっとも豪華なホテルを選んで昼食をすることにした。ホテル・ユーゴスラビアは十分なスペースとインテリアデザインがよい。モダンなしかも広大なロビーの一つは、すべてモノクロームでデザインされていた。レストランは華麗な品位のある色彩であり、テーブルウェアはシルバーであった。ユーゴは社会主義国の中で最も自由主義国に近い。海外旅行が自由にできる唯一の国である。英語の出来る運転手を依頼し市内を回ってもらった。しかし彼の英語はたどたどしかった。私は運転に差支えるのではないかと思って、イタリー語で質問してみたところ彼の顔はほころび、以後その言葉に切りかえてしまった。私のあやしげな動詞のイタリー語に対する答えは、ひょっとするとユーゴの言葉ではないかとすら思った。いまだに確証できていない。近代美術館は特に彫刻がすぐれていた。

ベオグラードの近代美術館。
(ユーゴスラビア)  ドブロブニクの別荘の門。
(ユーゴスラビア)
ベオグラードの近代美術館。
(ユーゴスラビア)
  ドブロブニクの別荘の門。
(ユーゴスラビア)

 休養のためのドブロブニクは、アドリア海に面した温暖の保養地であった。見なれない木が傘松のように茂り、小高い山すそには、厚い壁の別荘が点在していた。海に面した一部は城壁になっており、城内は中心から城壁に向って凹面のようになっていて、道と家と階段がすべて明るい茶褐色のトラバルチンでできていた。海は底をのぞかせるように青く透明で、空は抜けるようなブルー一色に広がっていた。私は翌朝海岸を見下す道をゆっくり散歩をした。別荘に入る石積みの門はつたがからみ、鉄のグリルによく似合っていた。私はいくつかの門のグリルを主題にしながら、ファインダーをのぞいていたが、この人通りの少ない道に、突然と思うように母と女の子供が近づいていることに気がついた。その方に顔をむけると同時に私は全く立ちつくしてしまったのである。それはあまりにも美しい顔立ちであった。彼女も一歩足なみが止まったかのように思えた。そこにはわずかな微笑があった。その美しい顔が瞬間残り、あの抜けるような空も道も山裾も、すべて視界から消えてしまっていた。サンタマリア・デルラ・タラーチェという語がなぜか頭をかすめていった。気がついてみると女の子は母親の留まるのを手をひいて3歩ほど歩いたところであった。

 それはルネッサンスの巨匠達の描く、あのサンタマリアの顔立ちであった。多分巨匠達もこのような感動があったのではないかと並はずれた予想を静めながらホテルに近づいていった。


電気・通信メーカーISKRA。(リュブリアーナ)  ISKRAのデザインによる電話機。
電気・通信メーカーISKRA。(リュブリアーナ)

  ISKRAのデザインによる電話機。
同じく家庭製品売場 ISKRA社製のものがある。   家電製品店、日本製輸出用テレビもある。(リュブリアーナ)
同じく家庭製品売場 ISKRA社製のものがある。   家電製品店、日本製輸出用テレビもある。(リュブリアーナ)

 リュブリアーナでは、この国の大企業の一つであるイスクラISKRA電気を訪問した。家電製品、電話、通信、コンピュータの広範な品種を生産している碓一の企業である。私は事前にデパートで、同社のデザインをチェックし、質問の準備にそなえた。しかし売場では西ドイツ、イタリー、デンマークの製品がみえ、イスクラのものは3種の掃除機がスエーデン製のスーパー950の掃除機と列んでいた。イスクラのものは外観から、中のメカニズム・レイアウトは明らかに予想がついたし、他の製品も私になりに判断がついたので、特に質問にまとめる必要もなかった。見学の工場は、電話施設が主なものであった。特筆することはあまりないが、鍍金の設備に新らしいシステムを使っていることが、注目に値するものであった。人員を最少限におさえ、半ば自動化した方法であり、清潔な工場レイアウトであった。この工場は350名のエンジニアと2,000名の従業員が何等かの資格を持っているもので、80%は中等教育を受けた者である。各地の工場を含めると37,000名となるが、このうち30%の従業員は資格をもっていない。他の工場には25名のインダストリアルデザイナーがいて、7名の展示デザイナーと、あと若干のグラフィックデザイナーがいる。この工場での生産は電話機1日6,000台で5カラー、ソビエトへは赤い電話機を輸出している。材料のABS樹脂(プラスチックスの名称─アクリル、ブタジエン、スチレンの重合)は西ドイツから輸入している。デザインは清潔で薄型であり、内部メカニズムのレイアウトもよくまとまっているようである。日本の電話機はメカニズムのレイアウトが今まで公社でおさえられていて、使用上、形態上変化が望めなかった。堅牢度(1mの落下試験)はよいが、世界で一番高価なものをわれわれは使っていることを知っているので、この点他国がうらやましいとさえ思える。モスクワや東欧諸国を含めても、日本の電話機よりデザインははるかによい。この工場からはトルコ、南アフリカ、南米にも輸出されている。

 この工場から開けた視界は、アルプスの東端2,700m級の3つの頂きがそびえ"朝スキーをし、午后は海水浴"のできるヨーロッパの小さな庭としての誇りをもっているスルベニア地方の一地域である。

 スロベニア家具会社(注14)は、商品名アルプレスALPLESの家具を製造している。企業規模は家具としては最大で28カ所に工場をもち15,000名の従業員がおり、工場関係者は14,000名である。年間3億ドルの生産のうち、輸出は8,000万ドルである。デザイナーはこの工場では35名、ウォール・ファニチュア、収納家具のみの工場である。流れ作業のラインは見たところ西独の機械のプラントであって、不可解な作業と技術が2点ほど抽出できた。しかしその後のミーテングではその指摘をしていない。集まりは工場長、専務、デザイナーを含めて10名程度の人達であった。質問の最後に、日本のこの業種のことを逆に質問はないかとの問いに対して、日本への輸出を考えたいがという話になった。私は日本の業界の42社(外国製を含めて)あることを説明し、紹介の労をとってもよいが、日本に入り込むにはなかなかむつかしいであろうと付加えておいた。それはラインのなかの二つの疑問があったからである。

 この夜Rudi babicデザイン協会の招待によるミーティングがあった。出席は商工会議所副会頭ホセ・ズパン Joze Zupan 氏と協会デザイナー約20名(テキスタイル、グラフィックデザイナーもいた)とわれわれ26名であった。副会頭の挨拶は「3つの宗教と4つの言語、5つの国家、6つの共和国、7つの自治州をもっているこの国の生活は複雑であるが満足している。それは社会主義国として共同で所有していることから生れている。50%が農業であるが、工業の発展は目ざましい、中でもわれわれのいるスロベニア共和国はもっとも業積をのこしている。」そして彼は席を立った。

 進行役をつとめた、リュブリアーナ建築美術館のペーター・クレシック Peter Krecic 氏は、この国のIDの発生について、「わが国のインダストリアルデザインの活動は1950年代に起ったといってよい。活動の中心は、リュブリアナ大学の建築学科のある教授の推進によって初まった。学生達にいくつかのプロトタイプをつくらせはじめた。最初の成果はレックスという名の椅子である。そして生産したのは唯一つの工場でこれが推進の母体となった。1960年代になって、大学のこの建築学科の中にデザイン科が設けられたが、各企業はインダストリアルデザインに興味を示さなかった。第6回のビエンナーレがこの国で開催され、これが60年代の新らしい産業でのポイントとなった。

 会場の空気は何かなじめないものがあった。資料も十分用意され、手荷物の重さを気にしながら、アート紙の資料を必要と思われるだけいただくことにした。なじまない点は、技術のグレードの差であった。言葉を吟味しなければならないむずかしい会合であった。



(注12) 125kmほどプラハの西方にある。温泉町の一面、陶器とガラス工業の町である。
(注13) A・レイモンド氏は日本に在住、数多くの建築活動を行った。第二次大戦中は米国に在ったが、戦後は逸早く日本へ戻り、再び建築に新生面を見せてくれた。私は、1937年当時レイモンド設計事務所のインテリアデザイナーであるノエミ・レイモンド夫人の下で仕事をした。
(注14) スロベニア家具会社の日本への輸出については、後日2社に話をしたが困難であった。一つは不況下と、技術・デザイン的な問題であった。


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