「ICSID'75 MOSCOW」と東ヨーロッパの
インダストリアルデザインの視察報告
金子 至
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ポンピドー総合文化センター パリ

●パリはこの文化センターGeorges Pompidou le center national dart et de cultureと、フランスインダストリアルデザイン協会CCI─Center de creation Industrielleでほとんど費いやされてしまって、ルーブルもエッフェルも挨拶する余裕はなかった。

 パリのレ・アール地区に膨大な総合文化センターをつくりつつあることは知っていた。この地区は、パリの夜の最後の場所、夜明けのオニオンスープはここの名物である。一方、市場をにぎわした肉屋、花屋、魚屋の活気あふれた場所でもあった。ジョルジュ・ポンピドーの政策によって、パリ市からこの土地を国で入手したのである。この土地の改革案は1960年3月15日パリ市議会で決定されたもので、市場はパリの南、ランジスに移すことになり、西側は郊外行きのメトロの駅が建設され、東側にこのセンターの建設を予定した。

 古典的な街並と建物の並ぶこの地区の移動は、1969年に始まり、1968年10月パリ市議会の最終決定の計画に従って、取り壊しが開始されたのである。賛成者と反対者の論議はジャーナリズムを騒がせ、デモも何回となく行われた。CCIの広報部長レネ・クルースRene Cruse氏はつぎのように1/100のモデルを前にして説明してくれた。

 「この総合文化センターは、ポンピドーの発案によって具体化した。すべての文化のクリエーションセンターとして世界で初めてのことである。計画に際してプロジェクトを組み、社会学者、心理学者、図書館関係、美術関係からの責任ある地位をつとめる人達によって構成された。第一に建築は、最も柔軟性のあること、近代的であることで、決して前衛的である必要はない、現代の証言であるような建物でなければならない。そして文化の創造の場であり、実行の場でなければならない。また大衆をむかえ入れる、文化のすべてのインホーメーションを流しうる、現代文化の普及の殿堂でなければならない。建築計画は、国際コンベティションによって多くの知能を集めるべきとの判断から、建築家オスカー・ニーマイヤを審査員長として、49カ国681点の応募の中から30点を選び、厳選の結果イタリアのエンリコ・ピアノ氏のグループが選ばれた。(2位は黒川紀章氏)現在ピアノ氏は現場近くの設計室で仕事を続けている。

パリのポンピドー・カルチュア・センターの1/100の模型。  同模型の背面、機械設備が露出している。
パリのポンピドー・カルチュア・センターの1/100の模型。
  同模型の背面、機械設備が露出している。

 この建築は1973年に故人となった、ドイツのドクター・ゲルバーのゲルバーシステムによる構造である。建坪7,000m2、敷地はこの2倍の空間で14,000m2、建物正面は160m、側面47m、高さ42m、地下3階、各階7mの5階である。この構造の特徴は85cm径のパイプを正面と背面に約11mスパンで14本を建て、その外に2m近くはなれてテンションになる20cm径のパイプを同じく14本そろえて繋ぎ、そのパイプに向って側面74mスパンの梁を乗せただけのものである。そのため各階のフロアーには柱は当然皆無となる。もう一つの特徴は機械コアを背面5階まで使い、水、ヒーティング関係などは屋上へ、エスカレーターは建物正面の左下から右上の5階まで外側に露出している。天井も配管が機能上色分けされ露出しているいわゆるブルターミズムの建築である。

天井の配管類は色分けされ露出している。  構造を示す。
天井の配管類は色分けされ露出している。
  構造を示す。
構造を示す。   現場。
構造を示す。   現場。

 ル・コルビュジェ(注15)はあの有名な言葉"家は住むための機械である。"といったが、ピアノ氏は、"この建物はコミュニケーションのための機械である。"といっている。

 この総合文化センターは4つの部門に分かれている。第1にコミュニケーションPubric Information LibraryとNews Roomである。世界中の新聞とレコードを収納し、図書は約50万冊となる計画である。そして国際的な学問的開発の場所ともしたい。国際的な現代芸術のすペての貸料を集めインホーメーションできる。例えば美術家名簿なども集録される。この2つのコレクションは、単なる美術館とは異っている。美術館は美術品の眠っている墓場である。

 第2はインダストリアルデザイン・センターIndustrial Design Centerである。ここはCCIが入り、特に毎日の生活と直結したデザインおよび環境デザインに関するインホーメーションである。大衆のセレクトしたものや、国内のインダストリアルデザインのカタログはすべてカード化され保存される。またインダストリアルデザイナーとメーカーとのコミュニケーションおよび、一般使用者との関係づけの2つの目的がある。環境、建築、ビジュアルコミュニケーションもこのCCIの中に含まれている。この計画は大へん野心的であると思っている。例えばフランスのある市で学校を計画する場合CCIにリサーチを依頼する。CClは新しいインダストリアルデザインからの提案をするといったようなことである。

 第3はモダンアート・ミウジアムNational Museum of Modern Artである。20世紀の始めからのコレクションで、絵画、彫刻、版画、写真、映画で最も新しいものを含む。

 第4は音響、音楽IRCAM─Acoustic/Music Research and Cordination Instituteである。これはこの建物の南側に続き、別棟にあって、音響のための防音装置のある建物である。これはピエール・ブーレーズが計画を練り、活動を行う。科学者、数学者、心理学者等のインターディシプリーナリーなグループによって音楽の分析が行われる。聴覚についての問題、どういう音を出したらどのように受けとられるか、現代の音楽の可能性を探るということであって、ブーレーズが作曲をするということではない、意図は例えば、クラシック音楽にはルールがあるが、現代の音楽はそれに向かなくなってきている。そのため現代の音楽のアルファベットをつくっておきたいのである。舞踊、映画、劇、詩の朗読の一般へのコミュニケーションもあり、それにそって、劇場、映画館、ラジオ局、テレビジョン局が設けられる。

 総建設費は500億円、年間運営費60億円である。1972年に着工、1976年7月に完了し、12月末にオープン、一般には1977年1月から公開される。人員は約800名で運営に当り、勿論国立であり文化省の担当である。

 日本のインダストリアルデザイナーの見学が、日本の人達にとって始めての見学である。建設後は世界の文化センターになるので、この公開の時は是非もう一度このパリを訪れてほしい。」クルーゼ氏の終りの言葉は、途中で挨拶に見えた文化センター所長のロバート・ボーダズRobert Bordaz氏も同じ言葉を繰返して忙しく去っていった。気が付いてみるとこのセンターの仮事務所は、われわれ10名の説明のために、閉館していることが解った。私は現場見学の前に、急いで案内係の女性に、ポスターと印刷物の幾枚かをセレクトし包ませておいた。構成分科会へのバサレリの大型プリント(西ドイツ版〉と、カラーサークルのスライドがその中に加わっていた。どれも偶然に1枚きりであった。

 現場は、彩度の高い黄色のヘルメットを頭にのせ、歩いて2〜3分のところにあった。目を開くように古い建物のまわりから忽然としてコンクリートを打ち終った広大なセンターがあった。表面が総ガラス張りになる(部分的には安全のためいくつかの壁があるが)その位置に1枚がはめこまれていた。足場の間から現場用のエレベーターで5名ずつ登ることとなった。多分わが国では安全確保のため見学者の立入りはこの程度では無理と思われた。それほど“不安全”なエレベーターであった。クルーゼ氏は更に言葉を続けていた。たしかにここから見る景観はパリのこの地区の住民が悲しみ、その取り壊しを見ようと集ったといわれるように、古く汚れてはいるが、様式のしっかりした建物が一つ一つ倒れていくことは、住民感情としても理解できるほどのものであった。

 「エッフェル塔も、当時のパリ市民の反対にあったし、あの醜悪な建物といわれていたが、現在のエッフェル塔はパリの象徴になっている。この建物もそのようになることを確信している。」私はル・コルビュジェのあのアパルトマン(注16)(気違いの建物との酷評が当時あった)も同じかと質問したが、「いやコルビュジェは一般のパリ市民は知らない。むしろ海外に聞えているアーキテクトだ。」

CCI─Center de Creation Industrielle

●パリのインダストリアルデザイン協会CCIは、あのポンピドー文化センターに入る前の仮事務所で、古い建物の内部をいくつか個性的にパーティションをとって使っている。職員80名、ディレクターのバレー氏の話の内容とその抱負は、「われわれは単なるデザインセンターにとどまらない。大きく環境のためのデザインセンターとしたい。目的は前衛に走りすぎず、一般の生活と密接につながったデザインの問題にある。それには家庭用の工業製品の紹介と分析、展覧会の開催、出版物─3カ月毎の機関誌の発行、教育関係者への写真資料の貸出しをするなどのデザイン資料部門、そしてインダストリアルデザイン部門、例えば公共のストリートファニチュア、歩行者のための市町村でのサインなどである。しかし、CCIは製作者にはなりえない。そのようなプロジェクトのコンサルティングである。1969年10月に設立して2年間を民間団体として仕事を行ったが、その後、国の組織の中に吸収していった。

 工業製品の分析については、現在この仮家屋で16名が当っている。目的は家庭用機器の技術的、デザイン分析である。

 フランスではインダストリアルデザイナーはあまり知られていない。1,500名ともいわれているが500名をまず登録整理したい。予算は年700万フランである。デザイン、技術の分析は、私も興味あるものであった。わが国の製品科学研究所(注17)(通産省、工業技術院─元工芸指導所)の製品分析と同程度であるかどうかはわからないが、むしろ、消費者協会等の試験分析に対称するものと思う。分析実験室を見ることができなかったというより見せなかったので、これは憶測にすぎない。しかし、この分析は3年間3万点にのぼる製品のチェックを予定しているし、それによってコンピュータを導入し、関係企業、デザイナー、エンジニアに対してインホーメーションを行うことになっている。また支所をつくって、電話での問い合わせ利用にも対処する方針である。」

 私は分析室の一部である実験済みの製品が天井まである棚に、見かけた厨房用機器の数々を知っていた。たまたまブラウン(注18)のジューサーが、実験済みの疲れた表情で棚の一部をしめていた。私は、かつてこのジューサーのデータをあるメーカーからきいたことがあった。その性能はものによってモーター振動でテーブルを走ることが示されていた。分析担当のミシェル・ミロMichel Millot氏に話をしたら、われわれの実験でも同様の結果があった。これはよくないと肩をすぼめてみせた。あのデザインポリシーの企業であり、あのグジロ氏のデザインした、1957年の傑作とされていたブラウンKM3のキッチンシリーズの中で汚点を残すことになった。私はインダストリアルデザイナーの立場として、一企業を批難することは許されない。ブラウンの名誉にとっても、あのグジロ氏(私と同年であることを想い起した)にとっても、その理由をここで述べておかなければならない。それはモータ軸の変芯というような基礎機械的なことでなく、脚部のゴム吸盤の設定にむしろ問題があった。滑面のテーブルが多くなった理由もあろう。しかし現在は改善されていることと思うが、その後のテストを私なりに出していない。

 パリはそろそろ暮れようとしていた。翌朝早くパリを発って日本に帰るという何かあわただしさも手伝っていたが、それでも通訳の女性にカフェでお礼を言い、私達のデザイナーがどんな仕事であるかを説明しておいた。彼女は自分の通訳が粗雑であること、細い神経を使う人達につくせなかったことを詫びていた。私は折角パリに来て、フランス政府のデザイン・美術政策に大変長い時間を費やしてしまったことに気が付いていた。"折角のパリ"の一つサントノーレ街のファッション通りは、ここから歩いて12分の距離であった。そして閉店まで25分しかなかった。私はバサレリのポスターの包みを抱いて足早やに歩いた。12分といわれていたが、8分位でエルメスのドアをあけることができた。店は私の予想通りであった。東京にあるエルメスははるかに高級扱いをしているはずだと思っていた。"写真屋"出身の歴史もあるが、ポンピドーのネクタイもここであるし、彼の海外への土産の一部はこのネクタイであると言う、ひそかなPRも多分パリ観光客の手前、そう高ぶりをみせてもいられないだろうと想っていた。あきらかにポンピドーのネクタイは、500本程がクロームのバーに無雑作に架けてあった。その中に私の希望するものは1本しか見当らなかった。わづかの時間の選択であった。後日、東京の店で店員が不思議な顔をして見ていった。「その色替りは3点あって貴男のものは一番先に買ってゆかれました。」という返事であった。この店は季節ごとに約1,300本をカタログで本国から取りよせる。むしろセレクトされているその色替りの2点はソフトな照明で陳列ケースの中に丁重に飾られていた。(ただし東京よリ3,000円程価格に差があった)

●1975年10月10日から11月1日の23日間の日程はすべて終った。未整理のメモをそのまま書き続けていったレポートとして受取っていただければ幸いである。公式のミーティングや国際会議の出席、副団長などがハードな緊張をもたらしていた。デザイン以外のことは努めて避けるようにしたけれども、つい入り込んでしまったようである。その時の感想や意見も、他の国へ移ってから修正する個所もでてきたがここでは述べていない。この日程の中で理解できたことより、"疑問"と"不可解"がより多く去来してしまった。それは客観的に判断しようとしても、私の既成概念の中で日本との比較論に終ってしまうのである。

 特筆することは、今回の訪問国がすべて東西を問わず、国家に於てインダストリアルデザインを推進していることであった。またデザインの考え方を必要として国が取り入れ利用していることであった。インダストリアルデザインの評価が高いことである。他のデザインは、この中に包含されるものと、アートに分け入るものと、一つの分野で二分されているところもあった。だがこのアートの解釈も非常に巾広いものであって私には明快になり得なかった。少なくともわれわれは芸術という言葉に、直感としての絵画・彫刻というイメージをもつが、それではない。科学思向のインダストリアルデザインも、モスクワ会議のソロビエフの言うsocial artの語をつくりだしている。

 詩人でもあったポンピドーは、cultureの中に包含し推進した。アメリカは企業と人間の使用の"効率"のためにインダストリアルデザインを利用した。そして日本は─この論議が出しつくされてはいない。



注(15) Le Corbusier 1887年〜1965年。スイス生まれ、フランスの建築家。彼はウィーンのホフマン、パリのオーギュスト・ペレ、ベルリンのペーター・ベーレンス(前述・東独の項)の所で研究を重ねた。日本の国立西洋美術館(上野)は、彼のスケッチによる。
注(16) マルセーユのアパルトマン(1952年)
注(17) 商工省工芸指導所は、1928年仙台に設立。1940年東京本所完成。1952年産業工芸試験所となり、1969年から製品科学研究所となった。
注(18) マックス・ブラウン Max Braun 社は1931年創立。1938年ラジオの生産。1955年からデザインを一新したしKM3調理機シリーズは1957年に発売され、莫大な売上げとなった。ブラウン・スタイルは、バウハウスのデザイン哲学の表現ともいわれる。


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