「ICSID'75 MOSCOW」と東ヨーロッパの
インダストリアルデザインの視察報告
金子 至
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東ドイツ インダストリアルデザイン庁

●クラコウから夜行の国際列車で東ベルリンに着く。東独デザイン庁Amt fur Industrielle Formgestaltung(AIF)を訪問、ドクター・ケルムM.Kelm所長(ICSIDモスクワ会議Design and state policyの発言者)の説明とスライドと交歓の正式訪問であった。

 「ドイツ民主主義共和国は、国家政策としてインダストリアルデザインを取入れている。国がデザインを発展させるための要求をわれわれに出している。われわれはそれを受けて、公共・人民工場等を通じて指導管理する義務がある。工場によって計画的にデザイナーを配したりする。例えば1976年〜90年にかけて何人のデザイナーを雇用せよという要求をする。デザインはすべての問題の中で質のコントロールを正しくするために有効性がある。国がものの質をコントロールするために必要なのがデザインである。われわれは国の閣僚評議会にわれわれの決定した提案を行う。それには実践した分析に基づいて、そのものが発展段階をとっているかどうか、国際的なものとの比較はどうかの認識の中から決定へともっていく。最終的には閣僚評議会が、国家的なレベルで管理コントロールをそれによって行う。私は目下、ファッションに決定的な分析を行っている。靴や新しい食器にどうファッションデザインとして発展させるべきかである。これも決論が出れば提案の形をとる。また工場へも分析結果を伝える。

 将来インダストリアルデザインの発展をどのような方法で考えるか、デザイン領域の拡大の問題、デザイナーの数の要求と、再教育の問題が課題となっている。

 研究所の構成は3部門にわかれ、労働環境の形成、または技術をコントロールする部門、第2に消費部門との関係、第3に国際部となっている。この協会とは別にデザインの教育については、専門校が2つある。東ベルリン大学には芸術学部の中にある。またモードデザイン研究所があって、約400名が可動されている。そこでは衣料、靴からカバンにいたるモードの生産体系までたてる。ファッションはスタイリングではないし、スタイリングには私は反対している。勿論10年間も同じものがよいというのは間違っているし、人間の心理学的な決論を待つが、心理的に一番よいと思う方法を把えることである。毎年スタイリングを変えようとは思わない。閣僚評議会の組織は各省を包含しているが、その中で文化省、工業省だけでなく文部省とも関連がある。評議会第一副議長は私の上にある。デザイン学生は毎年40名が社会に出るが、数は不足している。これを80名に増やすためには、文部省、文化省に提案要求をすることになる。デザイナー再教育は重要な課題であるといったが、現在ゼミナールで2週〜4週の学習を行い、またアイデアの会議を行っているが満足していない。将来はデザイナー再教育のためのアカデミーをつくりたいと思っているが、現在は器の教室がないので1〜2年の間にまず第一形体をつくるようになるであろう。ドイツに住む外人デザイナーとの提携交換もあって、自動洗濯機や医療機械を協同でデザイン開発している。」

 以上が私の未整理のままのケルム所長の話であった。スライドは東ベルリンの紹介のあと、ペーターベーレンスの1925年の照明器具のデザインから始まったことは印象的であった。質問の中で資源に乏しい両国の共通点が語られたりしたが、東ドイツの人口1,700万人に対して、日本は1億1千万だから、より日本は輸出が重要であることや、環境問題とデザインの係わり合いについての話もあった。シュミットWolfgang Schmidt副所長の質問で、日本はエンジニアとデザイナーのパーセンテージはどの位かという点については、企業の例をひいて答えてもらった。

東ベルリン芸術高等学校とプラハの工芸学校

●東ベルリンの郊外に近い静かな地区にあるこの芸術高等学校は、中庭をはさんだ校舎の左がデザイン科である。清潔な引締った感じの二階の研究室に、第1学年の担当のプロフェッサー・コーン女史を訪れる。すっきりとした品位のあるしかも礼儀正しい女性である。1学年は技術と構成で手の技術のみで課題に対して自由な発想のセンシブルな構成をつくらせている。「その点、日本の完成されたデザイン教育を模範にしている。デザイナー教育はセンシブルでなければいけない。自分の考えついた形を、手の言葉として始め、理論的なものは後期に行う。分科するためにあまり時間はないけれど。色彩については9色の配合を基準にして集中した学習をしている。2年はエンジニアデザイン(ID)の方向と、他のデザイン部門に分れる。第3学年は、それぞれ具体的な制作にかかる。国からの命令を受けて産学協同の制作である。学生数は3学年のデザイン科は60名、教師は4名で、毎年12名のIDデザイナーが卒業していく。しかしこれを20名にしたいが、残念ながら教室がないのが現状である。学生中50%が女性であって、IDのような厳しい職場に対して訓練をもっと行いたい。」私は彼女の背後にある陳列ケースの参考作品を見せて欲しいと断ってハンカチーフで手にしてみた。センシブルといった言菓のとおり、石膏の作品の表面は艶やかに光沢があり、どれもが1.5mm程の厚みで透きとおるように、きわめて精度の高い緻密な仕上をもった作品群であった。ここの学生は材質感の精度を知っている。そして精度を手中におさめている。この精度は内容を表現するのにきわめて役立った造形を見せていた。


東ベルリン芸術高等学校入口。  同校1学年の作品陳列棚、右が石膏作品。
東ベルリン芸術高等学校入口。   同校1学年の作品陳列棚、右が石膏作品。

 後日チェコスロバキアの首都プラハの工芸学校Vysoka Skola Umeckoprumslovaを訪問したが、それはこの国で著名なスタニスラフ・リベンスキイStanislav Libenskyガラス工芸主任教授の研究室であった。教授は大阪万博チェコ館のガラス群のデザイナーでもある。ガラスで可能な形態やテクニックが、中2階のある高い天井の研究室に並んでいた。「学生は19才から学校に入り、6年間の"生活"である。その前に3年間実技をどこかで経なければならない。入学後は自然環境の中で生活してから初めてクリスタルの勉強をおこなう。まず第1にクリスタルデザインの原理(フィロソフィ)。第2は形態と装飾(様式ではない)との組合わせ。第3段階は建築、モニュメンタルなもののデザインヘの移行である。」クリスタルでのここでの配合は鉛28%以上をいっている。勿論クリスタルガラスのみを扱うばかりでなく、伝統的なカットグラスもあるが、この研究室にはなかった。方向はモダンなデザイン指向であることがわかる。ガラスデザイン科の学生はクラスが学年2〜3名で、今まで6名の外国人留学生が卒業していった。

プラハのデザイン学校(チェコ)入口ドアの校名表示。
プラハのデザイン学校(チェコ)入口ドアの校名表示。

西独インダストリアルデザイン・センターIDZ

●東ベルリンの東西の壁は、ウンターデンリンデン通りのブランデンブルク門が記念碑的たたずまいをみせている。ここから西ベルリンへの道は閉ざされている。西への道は別に2つある。その道の一つの"壁"は、1m余りの厚みに高さ約2mのコンクリートが、通路の交互に築かれていて、バスは蛇行して通るようになる。シュミット副所長が乗り込んでくれたことが、検門をわずか12分で通過させた。西側の検門はない。バスは停止もしない。景観は全く変ってしまった。コマーシャルな大型の看板が目に飛び込んできた。第2次大戦の戦火のあとも所々に残っているし、そぼふる雨のせいか水溜りが見え、乗用車の数がはるかに増した。

 西独インダストリアルデザインセンターIDZ─Internationales Design Zentrum Berlin e.V.─の正式訪問は夕食前の6時から9時の予定だった。丁度翌日から国際的にも有名になったGute Form展(連邦グッドデザイン賞)の展示が終ったところで、われわれのために1日早く公開してくれ、そのあとミーティングをもつことになった。


西ドイツ、Gute Form 1975展のカタログ表紙。
西ドイツ、Gute Form 1975展のカタログ表紙。

 今回の展示は、"把手とスケール=工具と測定器"のテーマで行われたもので、製品部門84社220点、提案部門35点の応募の中から、14点と5点が選ばれている。入選の製品には15,000マルク(約150万円)の賞金が与えられる。このテーマの説明は、"労働に密接な関係をもっている工具と測定器で、これを契機としてデザインの役割が労働環境の分野にさらに拡大されていくことを期待して設定された"審査はドイツ連邦経済大臣代理 Bottger 氏ほか、英国王立美術大学(RCA)のB.Archer教授、シュツットガルト・デザインセンターのE.J.Auer氏、ハノーバー工科大学数授ICSID監事のH.Lindinger氏、ブラウン社製品開発担当のD.Rams氏等9名で他に専門委員3名の構成となっている。(この項JIDA機関誌インダストリアルデザイン1976年80号より)

 入選の製品はタテ長の赤いパネルにレイアウトされて取付けられており、それと列んでさらに細長い黒いパネルに、同種の古い工具が比較されるように展示されている。審査講評はそれぞれに視覚をさまたげない程度に小さくパネルに書かれている。私は以前から工具については興味をもっていた。工具は使うものにとって選ぶべきだし、良質の工具の働きはものつくりに、質と精度を高めてくれるからである。講評には"労働科学的に分析された形態から生れた""作業性を高める形""ひかえ目で機能的なデザイン"が散見できる。

 西独インダストリアルデザインセンターIDZの解説は、デイレククーのブルックハルト氏Francois Burkhardtによる。彼はスイスの大学で建築科出身、そして環境衛生学を専攻し、1961年IDZのディレクターとして就任した。明快な若手エリートの感じは彼の服装にも現われていて、スラツクスの裾は35cm以上のパンタロンであった。

 「1969年に設立されたIDZは、生産と使用者との橋渡しをする一つのプラットホームつくりであった。同時にそれは科学と経済を結びつける意味でもあった。そのコネクションにインダストリアルデザインは重要な要素をもっている。ここでは(西ベルリン特別市)75万マルクの予算のうち、80%がこの特別市から出ており、15%は生産企業から、あと10%近くがIDZのメンバーの会費、またはデザイン資料の頒布から得たものである。市の責任者は経済科学課のボードが当る。全体のメンバーは11名で、この特別市から2名、デザイナー2名、労働組合(エッセンにある科学関係者)2名、ワーキンググループから1名、等であって、この11名はインダストリアルデザイナー、政府代表、学校教育関係、コンシューマー代表、生産企業の150名がこの11名を選挙することになっている。そして、年間計画はこの11名のメンバーによって提案され、討議決定される。センターの政府代表はダムシュタットにある。

 西ベルリン特別市には12名のインダストリアルデザイナーが活動している(注11)。われわれはデザインをよりよくする方法について考えているし、人間のあり方は環境衛生によって変ってくるともいえる。一つには社会的な問題であり、そのような環境ならば、社会の変遷についていく方法がよいデザインの発生をもたらすことになる。シェーカー教徒のように、自己において改善して変化していく社会という意味であり、だからといって急にデザインの多くを変えられるものではない。これはソシアル・プランに対していえることである。この点でデザインに東西はない。変化に対してはモードの分析がある。1972年に資料としてまとめたのはスカートの変化についてである。社会的人間像を三角形にたとえると、頂点と低面のクラス、この上下はものに対して社会的に変化はないが、ミドルクラスは消費ブームを要求している傾向がある。しかしわれわれは消費ブームをつくるような方向は考えていない。」

 雨をついてホテルにつき遅い夕食を取った。ホテル・シュバイツェルホフHotel Schweizerhofはモダンな一流ホテルである。窓外はメイン通りに面していて、店舗のいくつかは、店内を夜通し照明している。東側の国々の照明の暗さが気になっていたが、ここは明るい。オイル・ショック後の節電の東京と同じ明るさを保っている。



(注11) 1960年に来日したウルム造形大学教授、またブラウンのデザイナーである、故ハンス・グジロ氏の話では、西独のインダストリアルデザイナーは、その時点で6名であるといっていた。


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