日本で最初の『デザイン』学校で未来を創造する【専門学校桑沢デザイン研究所】

アクセス
MENU
LINE YouTube Instagram Twitter Facebook
対談企画画像


〈桑沢〉卒業生対談 くわトーク – Let’s talk about KUWASAWA –

卒業生が語る〈桑沢〉で何を学び、何が楽しかったのか。
そしてまた、いま表現者として見た〈桑沢〉の魅力とは。
少し脱線しながら、語っていただきます。
‐ vol.1 安齋肇 × 森井ユカ ‐
渋谷・青春時代「悩むな〈桑沢〉に来い」「渋谷で鍛えよう」編


taidan11146
安齋肇[あんざい・はじめ]

イラストレーター、アートディレクター、ソラミミスト
東京都港区出身、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業。
麹谷・入江デザイン室(現・株式会社ケイプラス)、SMSレコード、を経て、フリーに。
1992年よりテレビ朝日系「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」コーナー出演、
JAL「リゾッチャ」のキャラクターデザインやNHK「しあわせニュース」のタイトル画など多数。
著書に『笑う洋楽展』(共著、マイクロマガジン社)、『勝手に観光協会』(共著、シンコーミュージック)など。





taidan11146
森井ユカ[もりい・ゆか]
立体造形家、雑貨コレクター、著者
有限会社ユカデザイン代表、桑沢デザイン研究所非常勤講師
東京都多摩市出身、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業。東京造形大学大学院修了。
立体造形では粘土を使ったキャラクターデザイン、漫画のキャラの立体化、ねんど遊びセット「ねんDo!」の企画・デザインなど広く展開。
主な著書に『スーパーマーケットマニア』シリーズ(講談社)、『おいしいご当地マーケット』(ダイヤモンド社)
『突撃!オトナの大学院』(主婦と生活社)など。






―〈桑沢〉を選んだわけ
写真 森井:雑誌『ビックリハウス』(パルコ出版)の編集部に高校生のとき出入りして、こういう雑誌をつくる仕事に就くにはどうすればよいのか、編集部の人に尋ねたことがあります。その方が〈桑沢デザイン研究所(以下〈桑沢〉)出身の方だったこともあり、入学を勧められ〈桑沢〉を受験しました。入学後は、いつしかイラストレーターを目指すようになり、卒業後はイラストレーターとして独立しましたが、数年後に、また本がつくりたくなりました。遠回りした感じはありますが、今は立体造形でのキャラクター・デザインと書籍の執筆の両方を行っています。

安齋:僕は美大に入ろうとして落ちて、1浪していました。2度目も落ちたとき、父親から「まだ間に合うところがある」「桑澤洋子さんは素晴らしい人だからこの学校はいいよ」と勧められました。友人からは試験が難しいとも言われましたが、運よく二次募集で通りました。
高校時代は、つらくて孤独、日々真っ暗で、何一つ楽しいことがありませんでした。だから〈桑沢〉に入ったらエンジョイしようと思っていたのに、入学するなり担任の宮沢タイ先生には「すぐにでも実践で身につけて、社会に出てデザイナーとしてやっていけるように真剣にやりなさい」「課題は大変だぞ」と言われ、学校に行くことが嫌になりました。学校に行かないことが流行っていたのかな、僕も行かなくなりました。でもたまたま大勢が集まったときがあって、宮沢先生が「このままだとろくな者になれないから、もし他にやりたいことがあるのであればきちんと考えた方がいい。来たくないなら辞めてもらっても構わない。でも家の事情があってやめられないのかもしれないから、授業の時に何をやっていたのかレポートで、報告してくれたら出席扱いにしてあげるから」と言われました。すると、逆にみんな来るようになったんですよ。実はレポートするほどの予定が特にあるわけでもなく、家でぼっとしていただけなんでしょうね。
全員来るようになったら一気に楽しくなりました。カップルができたり、サッカーやバンドをやる人がでてきたりして盛り上がった。今度は家に帰らなくなったほど。誰かの下宿先の部屋に行って、四畳半に9人くらいで寝て、あと2人くらいは入れなくて公園で寝たりしたなんてこともありました。


―〈桑沢〉で印象に残る授業
写真 森井:私の頃は、手を動かす基礎練習がメインでした。ひたすら線を引いたり、細かいコマ割りを全部違う色で塗ったり。職人らしい課題が好きで、レタリングがとりわけ好きでした。授業は厳しくて、先生から「明朝体は女性の足のように美しく描け」と指導されたことを覚えています。でもそう言われても、なかなか実感できなかった。書道までしましたが、レタリングに活かすまでには到らなかったですね。文字は奥深いなあと。
ハンドスカルプチャーも印象深いですね。グラインダーで樹脂や木などの素材をある程度削ったら、手でひたすらヤスリをかけ、極限までなめらかに磨く。想像していた形が自分の手で生まれる感じが面白かった。手の延長上に形があるというか、触覚が研ぎすまされる瞬間がありました。卒業後、しばらくしてから立体を制作するようになりましたが、手でつくることは楽しい、という感覚が残っていたからかな、とも思います。

安齋:1ミリの中に10本の線を引くとか、球体を100個描いてくるとか、インテリアの授業で、仕切りを使っ写真てきれいなスペースをつくるとか。一瞬無茶に思えても、課題にはそれぞれ理由がある。チャレンジしなければいけないことがあるというのは、ミッションをもらったようで楽しかった。
印象深いのは、やはり担任だった宮沢先生です。授業が終わった後にみんなで先生のところに集まって雑談していたとき、絵を描いたから見て欲しいと、女性のヌードを描いて持ってきた友人がいました。先生は「あなたはおっぱいを見たことがあるの」という。そいつは「はい」と。「触ったことあるの?今、彼女とつきあっているよね?」と。真赤になっている彼に先生は「もっときちんと触りなさい。触り方がいけないと思う。ちゃんと触ってあげないとおっぱいはわからないから。まずは触った後に絵を描いてみて」と。描く前に触るって、すごく大事ですよね、って被写体が何でも。

森井:彼は描き直したのですか?

安齋:描いてまた持ってきましたが「まだ足りない」とか言われていて、僕たちも恥ずかしさがあってすごくおかしかった。

― 役立った〈桑沢〉の授業
森井:手先を使った基礎練習は、楽しい一方でいろいろな面で厳しかったですね。完成度や美しさの点からしっかりチェックされ、とても鍛えられました。眠れない日があったり、どこでキリをつけたらよいかわからなくなったり。どんなスポーツをする人でもまず初めにランニングするように、こういった授業による訓練で、デザインのベース、基礎体力がついた気がします。
細部の仕上がり、手仕事の仕上げの美しさを求める先生が多くいらっしゃいました。社会に出てから、納品の時にクライアントさんが作品をひっくり返して「桑沢の卒業生は裏もきれいだね」と言ってくださったことがあります。一回ではなくて何回もそんなことがありました。見えないところまで気を配るのは、〈桑沢〉の教育方針の一つだったのではないでしょうか。
見えない場所だからといって、汚れや乱れをそのままにしているような仕事の仕方は気になります。他人に仕事を依頼するようになった今、ちゃんと任せられる人かどうか検討する際、見えない部分の仕上がりが判断基準になります。実力は細部に現れますので。

安齋:根気よく取り組む、粘り強さが身に付きましたね。僕の頃だと、版下(印刷の原版)をつくることがありましたが、夢中すぎてデザイナーか職人の仕事かわからなくなりました。カッターナイフでどこまで文字を切り込んでいけるか。削りに削ってレリーフのようになった版下をつくったときの達成感は異常なほどでした。
授業では実践的な課題が多くて、物づくりに必要な根性とセンスが養われる。文字の美しさや文字と文字の間隔で、デザインの良し悪しやレベルがわかるようになったのも、今から思うとありがたかったです。
就職活動では、授業での課題がそのまま役立ちました。卒業して勧められるがままデザイン事務所の面接に行くことになったのですが、何もなくて課題を持って行きました。一つは絵本で、凸版をつくって印刷したウォーホルっぽいもの。「自分の歴史」を絵本にするという課題だったので、内容もプロフィール紹介も兼ねた面接にはふさわしい感じでした。あとは、小さなものを徹底的に描く細密画の授業の課題。そして一円玉と昔のプルトップの缶の蓋を描いたものと、レタリングの文字を集めてコラージュしたものをポートフォリオに入れました。
面接したのはタイポグラフィの大家の入江健介さんで、「君はそういうのに興味があるの」と採用していただきました。そこである牛乳メーカーのロゴなどの仕事をさせてもらいました。隅の方に入るロゴばかりでしたが、楽しかったな。


▼当時の学校案内書

19731974198319841985
1973 1974  1983 1984 1985


―〈桑沢〉卒業後の仕事
安齋氏森井氏著書 森井:在学中からイラストの営業は少しずつしていました。ただ卒業後は初めからイラストだけでやっていくのは無理ですから、アルバイトもして。2、3年かけて少しずつイラストの仕事を増やしていきました。

安齋:デザイン事務所に入って、その後、レコード会社に在籍したこともありました。どこでも冒険させてもらって、失敗を重ねていきながら学びました。会社に勤めていたときはずいぶん失敗を大目に見てもらっていました。しかしのちにフリーになるとそういうことはできなくなりました。孤独。でも〈桑沢〉時代の同級生が近所でデザイン事務所をやっていたり、フリーのイラストレーターやデザイナーになって、妙に売れている奴がいたりした。そういう人が周りにいるだけで安心感がありました。

森井:私も、初めに営業に行ったのは〈桑沢〉の先輩や後輩のところでした。

安齋:「しょうがないなあ」という感じで聞いてくれますね。先輩や後輩には、デザインの世界で働いているだけではない。仕事として怪談話をする人がいたり、ラップをやる人がいたり、クリーニング屋になる人もいて。デザインだけを極めるのではない、けれども〈桑沢〉で培った感性を活かして他の仕事をやる、フットワークの軽い人たちが周りに多かったのはいろんな意味で心強いものです。
一つの仕事に固執してしまうと時に「自分には本当に才能があるのだろうか」と悩むこともある。いい時期と悪い時期がどんな仕事にもあるものです。そういうときにふっと肩の力を抜いて「他のことをやってみよう」と思うことができる。アートやグラフィックで世界一を目指すというのも素晴らしいけど、軽さもあった方がいいと思う。そのこだわらない感じの人が多い部分が好きです。むしろデザインやファッションのセンスを持っている人が増えて、いろいろな分野に出て行ってくれた方が楽しくかっこいい社会になる気がします。

― 社会人として見た〈桑沢〉
旧校舎画像 森井:渋谷のこの場所にある価値は高いですね。社会に近くて、歩くだけで時代の動きが頭に入ってくる。

安齋:僕は1970年代のロックの黄金期に学生でしたが、時代の息吹きと、芸術やアートを肌で感じられたのがとてもよかった。学内にはものづくりの過程が一通りあって、ファッション、デザイン、パッケージ、インテリア、写真などいろいろな分野を学ぶ人と教える人が一つのビルの中に集まっている。
〈桑沢〉のベースはデザインですが、アート系の学校との中間という感じがとても好きです。海水と淡水が混ざった汽水域で、ちょうどしじみが採れる、あの豊かさと同じ感じかな。

森井:私は40代で他の学校にも通いましたが、そこはあまりに静寂で驚きました。私もそうでしたが、落ち着きのない子供だった人、そのような人は〈桑沢〉が合うと思います。人に頼まれてもいないのに勝手にやってみたり、いろいろな現場に臆せず踏み込める人が自然に集まる。アカデミックな場というよりは多面的で、柔軟性を鍛えられるところ。
何においても言えることですが、他人の反応や声で作品は磨かれます。ネットにアクセスして不特定多数の人に見てもらうのもよいですが、直接会って話して、生の反応を感じあうのがもっと大切。極論すると学校には来るだけで価値がある。でもそういう場所は、社会にはなかなかないものです。

安齋:ざわざわとした教室に入ってきて、ざわざわした環境の中で授業を受けて、ざわざわと帰っていく。孤独になって一つのことを掘り下げていくのも大事ですが、それは家でもできること。現代の仕事の場面では始まりから終わりまで担当者に会うこともなくメールでのやりとりが可能です。人と会うのはやはり貴重。学校に来ることが財産。いろいろな人間が集まる学校で知り合って、そこで絆が生まれ、でもそれほど強いものではないゆるさもまたよいです。

桑沢_空森井:〈桑沢〉はまっさらな人ほど来る価値がある学校かもしれません。カテゴリーに納まらない人が多くて、いろいろな仕事をしている先輩たちがいるので。数十年後にはなくなってしまう仕事も多い、と言われるほど先が読めない現代です。でもそんな社会でしなやかに生きるための術を身につけられる。「悩むな〈桑沢〉に来い。あらゆる選択肢が待っている」と。

安齋:面白いことをやりたいと漠然と思っていたり、特に興味を持つことがなくても自分は人よりセンスがあるとか、妙な自信を持ったりする人がここに来ると面白いと思う。その自信が入ってから一度失われることになってもまた始めることができる、そういう時間であり場だと思います。思い出すと僕のまわりでは、地方から来た人はモチベーションが高かった。地元で心地よくお茶を濁すこともできますが、あえて「渋谷で鍛えろ」とも言いたい。とりあえずは、〈桑沢〉の門をたたいて欲しいですね。

〔対談日:2016/11/14 @桑沢デザイン研究所〕

archivestyle
対談企画画像
‐ vol.2 濱二美沙子 × 西山浩平 ‐
大学と〈桑沢〉の2本立て編
くわトークvol.3
‐ vol.3 佐藤 卓 × 日下部 昌子 ‐
「デザインの本質」編

‐ vol.4 糸井重里 × 星野槙子 × 浅葉克己 ‐
ほぼ日でくわトーク編
対談企画画像



〈桑沢〉卒業生対談 くわトーク
– Let’s talk about KUWASAWA –

卒業生が語る〈桑沢〉で何を学び、何が楽しかったのか。
そしてまた、いま表現者として見た〈桑沢〉の魅力とは。
少し脱線しながら、語っていただきます。
‐ vol.1 安齋肇 × 森井ユカ ‐
渋谷・青春時代「悩むな〈桑沢〉に来い」「渋谷で鍛えよう」編


taidan11146
安齋肇[あんざい・はじめ]
イラストレーター、アートディレクター、ソラミミスト
東京都港区出身、桑沢デザイン研究所デザイン科修了。
麹谷・入江デザイン室(現・株式会社ケイプラス)、
SMSレコード、を経てフリーに。
1992年よりテレビ朝日系「タモリ倶楽部」の
「空耳アワー」コーナー出演、
JAL「リゾッチャ」のキャラクターデザインや
NHK「しあわせニュース」のタイトル画など多数。
著書に『笑う洋楽展』(共著、マイクロマガジン社)、
『勝手に観光協会』(共著、シンコーミュージック)など。


taidan11146
森井ユカ[もりい・ゆか]
立体造形家、雑貨コレクター、著者
有限会社ユカデザイン代表、桑沢デザイン研究所非常勤講師
東京都多摩市出身、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科修了。
東京造形大学大学院修了。
立体造形では粘土を使ったキャラクターデザイン、
漫画のキャラの立体化、ねんど遊びセット「ねんDo!」の
企画・デザインなど広く展開。
主な著書に『スーパーマーケットマニア』シリーズ(講談社)、
『おいしいご当地マーケット』(ダイヤモンド社)
『突撃!オトナの大学院』(主婦と生活社)など。


―〈桑沢〉を選んだわけ


写真
森井:雑誌『ビックリハウス』(パルコ出版)の編集部に高校生のとき出入りして、こういう雑誌をつくる仕事に就くにはどうすればよいのか、編集部の人に尋ねたことがあります。その方が〈桑沢デザイン研究所(以下〈桑沢〉)出身の方だったこともあり、入学を勧められ〈桑沢〉を受験しました。入学後は、いつしかイラストレーターを目指すようになり、卒業後はイラストレーターとして独立しましたが、数年後に、また本がつくりたくなりました。遠回りした感じはありますが、今は立体造形でのキャラクター・デザインと書籍の執筆の両方を行っています。

安齋:僕は美大に入ろうとして落ちて、1浪していました。2度目も落ちたとき、父親から「まだ間に合うところがある」「桑澤洋子さんは素晴らしい人だからこの学校はいいよ」と勧められました。友人からは試験が難しいとも言われましたが、運よく二次募集で通りました。
高校時代は、つらくて孤独、日々真っ暗で、何一つ楽しいことがありませんでした。だから〈桑沢〉に入ったらエンジョイしようと思っていたのに、入学するなり担任の宮沢タイ先生には「すぐにでも実践で身につけて、社会に出てデザイナーとしてやっていけるように真剣にやりなさい」「課題は大変だぞ」と言われ、学校に行くことが嫌になりました。学校に行かないことが流行っていたのかな、僕も行かなくなりました。でもたまたま大勢が集まったときがあって、宮沢先生が「このままだとろくな者になれないから、もし他にやりたいことがあるのであればきちんと考えた方がいい。来たくないなら辞めてもらっても構わない。でも家の事情があってやめられないのかもしれないから、授業の時に何をやっていたのかレポートで、報告してくれたら出席扱いにしてあげるから」と言われました。すると、逆にみんな来るようになったんですよ。実はレポートするほどの予定が特にあるわけでもなく、家でぼっとしていただけなんでしょうね。
全員来るようになったら一気に楽しくなりました。カップルができたり、サッカーやバンドをやる人がでてきたりして盛り上がった。今度は家に帰らなくなったほど。誰かの下宿先の部屋に行って、四畳半に9人くらいで寝て、あと2人くらいは入れなくて公園で寝たりしたなんてこともありました。


―〈桑沢〉で印象に残る授業


写真
森井:私の頃は、手を動かす基礎練習がメインでした。ひたすら線を引いたり、細かいコマ割りを全部違う色で塗ったり。職人らしい課題が好きで、レタリングがとりわけ好きでした。授業は厳しくて、先生から「明朝体は女性の足のように美しく描け」と指導されたことを覚えています。でもそう言われても、なかなか実感できなかっ た。書道までしましたが、レタリングに活かすまでには到らなかったですね。文字は奥深いなあと。
ハンドスカルプチャーも印象深いですね。グラインダーで樹脂や木などの素材をある程度削ったら、手でひたすらヤスリをかけ、極限までなめらかに磨く。想像していた形が自分の手で生まれる感じが面白かった。手の延長上に形があるというか、触覚が研ぎすまされる瞬間がありました。卒業後、しばらくしてから立体を制作するようになりましたが、手でつくることは楽しい、という感覚が残っていたからかな、とも思います。
写真
安齋:1ミリの中に10本の線を引くとか、球体を100個描いてくるとか、インテリアの授業で、仕切りを使ってきれいなスペースをつくるとか。一瞬無茶に思えても、課題にはそれぞれ理由がある。チャレンジしなければいけないことがあるというのは、ミッションをもらったようで楽しかった。
印象深いのは、やはり担任だった宮沢先生です。授業が終わった後にみんなで先生のところに集まって雑談していたとき、絵を描いたから見て欲しいと、女性のヌードを描いて持ってきた友人がいました。先生は「あなたはおっぱいを見たことがあるの」という。そいつは「はい」と。「触ったことあるの?今、彼女とつきあっているよね?」と。真赤になっている彼に先生は「もっときちんと触りなさい。触り方がいけないと思う。ちゃんと触ってあげないとおっぱいはわからないから。まずは触った後に絵を描いてみて」と。描く前に触るって、すごく大事ですよね、って被写体が何でも。

森井:彼は描き直したのですか?

安齋:描いてまた持ってきましたが「まだ足りない」とか言われていて、僕たちも恥ずかしさがあってすごくおかしかった。



―〈桑沢〉の授業で役立ったこと

森井:手先を使った基礎練習は、楽しい一方でいろいろな面で厳しかったですね。完成度や美しさの点からしっかりチェックされ、とても鍛えられました。眠れない日があったり、どこでキリをつけたらよいかわからなくなったり。どんなスポーツをする人でもまず初めにランニングするように、こういった授業による訓練で、デザインのベース、基礎体力がついた気がします。
細部の仕上がり、手仕事の仕上げの美しさを求める先生が多くいらっしゃいました。社会に出てから、納品の時にクライアントさんが作品をひっくり返して「〈桑沢〉の卒業生は裏もきれいだね」と言ってくださったことがあります。一回ではなくて何回もそんなことがありました。見えないところまで気を配るのは、〈桑沢〉の教育方針の一つだったのではないでしょうか。
見えない場所だからといって、汚れや乱れをそのままにしているような仕事の仕方は気になります。他人に仕事を依頼するようになった今、ちゃんと任せられる人かどうか検討する際、見えない部分の仕上がりが判断基準になります。実力は細部に現れますので。

安齋:根気よく取り組む、粘り強さが身に付きましたね。僕の頃だと、版下(印刷の原版)をつくることがありましたが、夢中すぎてデザイナーか職人の仕事かわからなくなりました。カッターナイフでどこまで文字を切り込んでいけるか。削りに削ってレリーフのようになった版下をつくったときの達成感は異常なほどでした。
授業では実践的な課題が多くて、物づくりに必要な根性とセンスが養われる。文字の美しさや文字と文字の間隔で、デザインの良し悪しやレベルがわかるようになったのも、今から思うとありがたかったです。
就職活動では、授業での課題がそのまま役立ちました。卒業して勧められるがままデザイン事務所の面接に行くことになったのですが、何もなくて課題を持って行きました。一つは絵本で、凸版をつくって印刷したウォーホルっぽいもの。「自分の歴史」を絵本にするという課題だったので、内容もプロフィール紹介も兼ねた面接にはふさわしい感じでした。あとは、小さなものを徹底的に描く細密画の授業の課題。そして一円玉と昔のプルトップの缶の蓋を描いたものと、レタリングの文字を集めてコラージュしたものをポートフォリオに入れました。
面接したのはタイポグラフィの大家の入江健介さんで、「君はそういうのに興味があるの」と採用していただきました。そこである牛乳メーカーのロゴなどの仕事をさせてもらいました。隅の方に入るロゴばかりでしたが、楽しかったな。


▼当時の学校案内書
スマホ対談ページ(学校案内画像)


―〈桑沢〉卒業後の仕事

安齋氏森井氏著書
森井:在学中からイラストの営業は少しずつしていました。ただ卒業後は初めからイラストだけでやっていくのは 無理ですから、アルバイトもして。2、3年かけて少しずつイラストの仕事を増やしていきました。

安齋:デザイン事務所に入って、その後、レコード会社に在籍したこともありました。どこでも冒険させてもらって、失敗を重ねていきながら学びました。会社に勤めていたときはずいぶん失敗を大目に見てもらっていました。しかしのちにフリーになるとそういうことはできなくなりました。孤独。でも〈桑沢〉時代の同級生が近所でデザ イン事務所をやっていたり、フリーのイラストレーターやデザイナーになって、妙に売れている奴がいたりした。そういう人が周りにいるだけで安心感がありました。

森井:私も、初めに営業に行ったのは〈桑沢〉の先輩や後輩のところでした。

安齋:「しょうがないなあ」という感じで聞いてくれますね。先輩や後輩には、デザインの世界で働いているだけ ではない。仕事として怪談話をする人がいたり、ラップをやる人がいたり、クリーニング屋になる人もいて。デザインだけを極めるのではない、けれども〈桑沢〉で培った感性を活かして他の仕事をやる、フットワークの軽い人たちが周りに多かったのはいろんな意味で心強いものです。
一つの仕事に固執してしまうと時に「自分には本当に才能があるのだろうか」と悩むこともある。いい時期と悪い時期がどんな仕事にもあるものです。そういうときにふっと肩の力を抜いて「他のことをやってみよう」と思うことができる。アートやグラフィックで世界一を目指すというのも素晴らしいけど、軽さもあった方がいいと思う。そのこだわらない感じの人が多い部分が好きです。 むしろデザインやファッションのセンスを持っている人が増えて、いろいろな分野に出て行ってくれた方が楽しくかっこいい社会になる気がします。


― 社会人として見た〈桑沢〉

旧校舎画像
森井:渋谷のこの場所にある価値は高いですね。社会に近くて、歩くだけで時代の動きが頭に入ってくる。

安齋:僕は1970年代のロックの黄金期に学生でしたが、時代の息吹きと、芸術やアートを肌で感じられたのがとてもよかった。学内にはものづくりの過程が一通りあって、ファッション、デザイン、パッケージ、インテリア、写真などいろいろな分野を学ぶ人と教える人が一つのビルの中に集まっている。
〈桑沢〉のベースはデザインですが、アート系の学校との中間という感じがとても好きです。海水と淡水が混ざった汽水域で、ちょうどしじみが採れる、あの豊かさと同じ感じかな。

森井:私は40代で他の学校にも通いましたが、そこはあまりに静寂で驚きました。私もそうでしたが、落ち着きのない子供だった人、そのような人は〈桑沢〉が合うと思います。人に頼まれてもいないのに勝手にやってみたり、いろいろな現場に臆せず踏み込める人が自然に集まる。アカデミックな場というよりは多面的で、柔軟性を鍛えられるところ。
何においても言えることですが、他人の反応や声で作品は磨かれます。ネットにアクセスして不特定多数の人に見てもらうのもよいですが、直接会って話して、生の反応を感じあうのがもっと大切。極論すると学校には来るだけで価値がある。でもそういう場所は、社会にはなかなかないものです。

安齋:ざわざわとした教室に入ってきて、ざわざわした環境の中で授業を受けて、ざわざわと帰っていく。孤独になって一つのことを掘り下げていくのも大事ですが、それは家でもできること。現代の仕事の場面では始まりから終わりまで担当者に会うこともなくメールでのやりとりが可能です。人と会うのはやはり貴重。学校に来ることが財産。いろいろな人間が集まる学校で知り合って、そこで絆が生まれ、でもそれほど強いものではないゆるさもまたよいです。

森井:〈桑沢〉はまっさらな人ほど来る価値がある学校かもしれません。カテゴリーに納まらない人が多くて、いろいろな仕事をしている先輩たちがいるので。数十年後にはなくなってしまう仕事も多い、と言われるほど先が読めない現代です。でもそんな社会でしなやかに生きるための術を身につけられる。「悩むな〈桑沢〉に来い。あらゆる選択肢が待っている」と。

安齋:面白いことをやりたいと漠然と思っていたり、特に興味を持つことがなくても自分は人よりセンスがあるとか、妙な自信を持ったりする人がここに来ると面白いと思う。その自信が入ってから一度失われることになってもまた始めることができる、そういう時間であり場だと思います。思い出すと僕のまわりでは、地方から来た人はモチベーションが高かった。地元で心地よくお茶を濁すこともできますが、あえて「渋谷で鍛えろ」とも言いたい。とりあえずは、〈桑沢〉の門をたたいて欲しいですね。

桑沢_空
〔対談日:2016/11/14 @桑沢デザイン研究所〕


archive
対談企画画像
‐ vol.2 濱二美沙子 × 西山浩平 ‐
大学と〈桑沢〉の2本立て編



くわトークvol.3
‐ vol.3 佐藤 卓 × 日下部 昌子 ‐
「デザインの本質」編




‐ vol.4 糸井重里 × 星野槙子 × 浅葉克己 ‐
ほぼ日でくわトーク編