日本で最初の『デザイン』学校で未来を創造する【専門学校桑沢デザイン研究所】

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ホーム 就職・キャリア 卒業生インタビュー 鄭 愛香(チョン・エヒャン)さん/建築家
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【月刊インタビュー】 桑沢卒の素敵なあのひと
今注目のクリエイターにお話を伺う連載。第14回目は、建築家として活躍しているあのひとです!


建築家 鄭 愛香(チョン・エヒャン)さん

1992年 愛知県出身。在日コリアン4世。朝鮮大学校 美術科卒業後、桑沢デザイン研究所 総合デザイン科スペースデザイン専攻卒業。レモン画翠主催「第39回学生設計優秀作品展(レモン展)」にて審査委員長の山本理顕賞・レモン賞を受賞。
2016年から山本理顕設計工場勤務、2020年カサイタイガ+チョンエヒャン建築事務所/KACH 共同主宰。

―― 桑沢に入るまでの経緯を教えてください。

幼稚園から大学まで朝鮮学校に通い、武蔵美と隣接する朝鮮大学校の教育学部美術科で学びました。朝鮮大学校は全国の在日コリアンが集まる大学で、私は文字や絵をかくことが好きだったので美術科を選びました。美術科では彫刻やデッサン、油絵やアクリル画などを学ぶと同時に、在日コリアンとしてどう生きていくべきかといった討論もしています。友人たちと討論や制作を重ねていく中で、「在日コリアン社会と日本社会を繋ぐ役を、クリエイティブを通じてやり遂げたい」という目標ができました。在日コリアンとして日本社会で働きながら、自分が何者で何をやり遂げるべきなのかを模索したい気持ちがありました。

社会性のあるクリエイティブを調べていくと「デザイン」という分野を見つけました。「大学以外でデザインを学ぶなら桑沢」という先生の一言もあって、オープンキャンパスや桑沢祭に行きました。新しい物を社会に提案する作品たちを見て純粋に「デザインって面白いな」「ここで学びたいな」と思い、桑沢に決めました。

―― 桑沢に入学されてから印象的なエピソードを教えてください。

桑沢は私にとって初めての日本学校でした。最初はとても緊張しましたが、期待感と闘志に燃えていましたね。総合デザイン科の1年次は様々な学生が一緒のクラスで学び、2年次に分野を選択するため、各分野に友達がいました。それが桑沢らしい良い環境だなと思っていたのですが、他分野の課題について軽く会話することはあっても、深く掘り下げて見て聞いて話す機会が無いことにもったいなさを感じ始めました。

せっかく桑沢に通っているのだから、横のつながりを使って色々なデザインを見てみたくなりました。1年次のクラスメイトに合同展示会を開催するのはどうかと話してみたら、「めちゃくちゃいいじゃん」と反応が返ってきたので、有志で「2年生合同講評会」を開催しました。

尊敬できる同期がたくさんいて、みんなが積極的に出品してくれたので、分野が分かれてからの成長や思考の発展、どういう風にデザインと向き合っているかがその場でよく分かり面白かったです。ビジュアルの授業ってこういうところに批評の趣を置いているんだなとか、自分の所属する分野だけだと全然見えない部分が可視化できた会でした。

―― 卒業制作のSHIBU宿について教えてください。

今もよく子どもを連れて行くほど、渋谷が好きです。そのエネルギーや街行く人、構成しているばらばらな建築群も全部好きで、「何か提案するなら渋谷」と決めていました。桑沢にいた時、アルバイト先まで109後ろの「道玄坂小路」を突っ切っていたのですが、その細道に入ると急に街のスケールが小さくなることに気づきました。ラブホ街だけどなんか面白い敷地だなと思い調べると、100年前から存在する「百軒店」という商店街だったんです。

卒業設計でこの場所の良さを提案したいと思い、百軒店を囲う宿をデザインしました。ラブホ街になった百軒店を可視化させて自発的に再編させる提案です。宿は宿泊したり、仕事場にしたり、アトリエにしたりと多機能にすることで多様な人々を呼び込み、囲われた百軒店に活動が生まれる想定です。昔は劇場や温泉、飲み屋もたくさんあって、今でも数十年も続くお店がいくつか現存しています。その歴史を上書きするのではなく、今と昔が共存しながら敷地の面白さを継承して欲しいと願いを込めて宿をデザインしました。自分でも気に入っている案です。

―― 学外のコンペにも参加していましたね。

卒展に出した時点ではあまり納得できる仕上がりにならず、このモヤモヤをどう解消しようかと考えた時に、学外のコンペに出すことにしました。出したのは、地元の名古屋で行われている「デザイン女子No.1決定戦」と、関東の卒業設計展である「レモン展」です。名古屋のコンペではファイナルに進めませんでしたが改善点が見えてきて、ブラッシュアップしたSHIBU宿をレモン展に出展しました。

レモン展は、レモン画翠という画材屋さんが関東の大学・専門学校建築科の卒業設計から選抜作品を集めて展示する歴史ある卒業設計展です。審査の日は審査員の建築家が会場を回り、参加者は模型の前で質疑応答をします。10作品ほどが選ばれて壇上でのプレゼンを経て、賞が決まります。そこで建築家である山本理顕さんにSHIBU宿を評価していただき、山本理顕賞を受賞しました。今のところ、この受賞が人生で一番の転機ですね。

―― 桑沢を卒業後、山本理顕設計工場に就職されていますね。

アルバイト先の設計事務所の所員さんに就職の相談をしていたところ、「アトリエ系の設計事務所希望なら、就活は急がなくても大丈夫だよ」とアドバイスしていただき、まずは一番大きい目標であるレモン展を終えてから就活しようと決めました。

レモン展の後、審査員と受賞者でご飯に行きました。5月だったので、受賞者の大半は就職しているか大学院に進学していて、唯一私だけが決まっていない状況でした。山本さんが「ポートフォリオを持って面接に来なさい」と提案してくださったので、急いで作り直して面接にいき、採用されました。

結果的にはレモン展に就職先がついてきた形になって、全力を出し切って桑沢生活を締め括ることができ、一番理想とする進路に進めたと思います。進路は現場で働いている所員さんに色々教えていただけたことが助けになりました。設計事務所のアルバイトで模型製作のスキルアップをしつつ、進路相談にも乗ってもらい、大きな経験になりました。

―― 山本理顕設計工場ではどのような仕事をしましたか。

事務所が建てた自社ビルと、集合住宅に携わりました。集合住宅は先輩から引き継いだのですが、かなり大変なプロジェクトでした。知らないことが多すぎて、職人さんに聞いたり調べたり、常に知識を頭に叩き込みながらクライアントや現場の対応をしました。

桑沢は総合的にスペースデザインを学ぶので、他の大卒に比べると建築の知識が足りない状態でした。それでも担当になってしまったので、上司や現場監督にたくさん助けてもらいながら、入社3年目でなんとか一現場を終えました。一現場終えるとノウハウが把握できるようになり、次は自分主導で建築のデザインをしてみたいなと思うようになりました。

―― 現在はご自身の事務所と山本理顕設計工場を掛け持ちされているんですか?

山本理顕設計工場に所属しながら、2020年に笠井と共同で設計事務所を立ち上げました。事情があり、山本さんからの許可を頂きながら2人でも設計を行なっています。当初は笠井のみの事務所でしたが、結婚を機に共同事務所としました。笠井とは公私共にパートナーであるため365日建築の話をしていて、うんざりする日が多々ありますが、良いものを作る為に必要な時間だと自分に言い聞かせています。笑

―― House in Yanakacho(以下HIY)について教えてください。

私と笠井が初めて手掛けた建築です。初めてということもあり、「住宅のあり方」を二人で議論しながらお施主に提案を行い、方向性を決めていきました。

近代社会では閉じられた住宅が有り触れていて、街と住宅が切り離されていると感じています。HIYは敷地に沿って囲いを立てて、それを宙に浮かせることで大らかな家の輪郭をつくりました。街と住宅の境界線を明確に設けないことで、街と住人の生活が混ざり合う住宅にできないかと考えました。囲いは半透明のポリカーボネート、囲いの下には屋外カーテンを設けて、開閉することでプライバシーを住人が調整できる設えにしました。内部空間も中庭から食堂、大階段をあがってリビング、更に階段を登って寝室があり、プライバシーに応じて部屋がレベル差をつけながら仕切りなく緩やかに繋がることで、家のどこにいても住人の気配や外の空気を感じとることができるような構成を考えました。

―― お二人の哲学が色濃く反映された建築ですね。

HIYを作り終えて、今後のデザインの方針として「境界線を見直す」ことをやってみようか、と二人で話しています。昔は縁側や客間といったお客さんを迎えるための部屋があり、半プライベート半パブリックみたいな空間が生活を豊かにしていたと思います。しかし近代化によって人が都市に押し寄せ、効率や経済的な側面のみが反映された建売戸建やマンションが流行し、昔の豊かさが失われたと言われています。今の建築家は、そういった歴史や経緯をしっかり読み解いて、自分なりにどうやって「住宅に豊かさを取り戻していくか」を試行錯誤しているのではないでしょうか。

また、建築は引渡しがゴールではないと思っています。住宅の場合、お施主の生活がスタートすると、必ず気になる点、アップデートしたい点が出て来ます。お施主が住宅を育てていく過程に建築家が寄り添いながら引き続きコミュニケーションを取っていくことも大切だと感じています。

―― 次にCoto Mono Michi at Tokyoについて教えてください。

初仕事がCoto Mono Michi at Tokyoでした。レジや作業場、バーにもなる7mの長いカウンターと、普段は物販棚、イベント時には机と椅子に変わる家具を置いて、空間をフレキシブルに使えるようにデザインしました。

Coto Mono Michi at Tokyoはリノベーションでしたが、街の人が入って来たくなるような、街の一部のような店舗にするため、入り口を全面開放できる引き戸に変更しました。昨年末にメンテナンスで訪れた際、魅力的なモノたちがたくさん並ぶ中に絶え間なくお客さんがふらっと入っていました。なによりも設計者の想定を超えてお施主が工夫して使いこなしてくれていたのが、一番嬉しかったです。

―― 現在、朝鮮小学校のプロジェクトを手掛けられています。詳しく教えてください。

美術科の同期が朝鮮学校で先生をしていて、「既存の学校の図面をCADで書き起こして欲しい」という依頼が始まりでした。校長先生と話す機会があり「校舎を建て替えたいので力を貸してほしい」とお声がけを頂いたのが2年ほど前です。

「朝鮮学校を建てることが夢です」と、学生向けの雑誌インタビューで書いたことがあるんですが、こんなにも早く実現するとは思っていませんでした。朝鮮学校は建設から60-70年経っているものが多く、老朽化や生徒数の減少、収益源の確保等、全国的に共通する課題に面していると思います。

単に学校の機能のみを建築に負荷するのではなく、特別教室をコンパクトにまとめて外部に貸し出せる仕様はどうか、レイアウトを変えるとデイサービスを運営できる仕様はどうか等、校長先生を筆頭に図面、模型、CGで何度も試作を行なっています。朝鮮学校だからこそできる、地域に愛される学校を先生や学父母たちと作ろうとしています。

設計以外にも、広報用のチラシも手がけています。他にもサインやカーテン、植栽計画など色んなデザインが出て来ますが、すべて「建築」だと認識しています。桑沢でスペースデザイン専攻を選んだきっかけが「建築は総合デザイン」という先生の一言で、まさに朝鮮学校で総合デザインを担う機会を頂けました。課題は多いですが、先生たちと力を合わせて必ず実現させます。

―― 昨年、第一子となるお子さんを出産されています。キャリアと出産で悩みませんでしたか?

キャリアか出産かという女性だけが強いられる呪縛に全く納得していなかったので、悩みませんでした。笑 やりたいことは全部やるべきだと思い、両立できる働き方を探しました。山本理顕設計工場では育休も取れましたし、今も笠井と協力しながら仕事をできる時間を作っています。

色々な人に相談しながら、時には手伝ってもらいながら、子育てと仕事を妥協せず進められています。以前はお酒が大好きで毎週飲みに出かけていたのですが、子供が産まれて当分飲みに行けない生活になり、やりたいことは今やっておかないと絶対後悔すると特に感じましたね。

―― 最後に、これから建築家を目指す学生にメッセージをお願いします。

まず、建築を総合デザインと捉えている人がどれほどいるでしょうか。形や構造的な格好よさ、多くの労力が重なって作り上げる建築の力強さに惹かれる人もいると思いますが、私は建築の中にグラフィックもプロダクトもファッションも、様々なデザインの要素が寄せ集まって一つの豊かな空間ができる部分に一番面白みを感じています。桑沢では1年次に色々な分野を学び、デザインの根源的なものを課題や講義によって吸収できたので、みなさんもその経験を忘れずに常に持っていてほしいです。

また、デザインは決して表層的な行為ではないです。ただ綺麗に見せるだけの浅薄な建築は、人と人、人と街を断絶していくと私は思います。街は建築の集合によって構成されていますし、その地域に大きな影響を与えます。自分がデザインした建築が社会に影響を与えるということを認識しながら「この空間をつくることで社会や人々にどんな幸せや豊かさを感じてもらえるのか」を考えていってほしいです。

そのためにも、ぜひ色々な建築を見に行ってほしいです。日本には地域に愛されている建築がたくさんあります。その建築がどのように豊かさを生み出しているのか体感してください。建築を見て体感して、自分なりに社会に与える「豊かさ」や答えを常に模索しながら、自分自身を育てていってくれたらいいなと思います。


インタビュアー:はやしわかな
桑沢デザイン研究所 総合デザイン科 プロダクトデザイン専攻卒業。
<2022年3月>
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